「あなたは日本に帰りなさい!」ロシア人妻が泣きじゃくった悲しい理由【シベリア抑留秘話】
母親のエンマはヴォルガ地方サラトフ州ヤーゴドノエ村出身のドイツ人。若いころに生まれ育った村から追放され、クラスノヤルスク地方に抑留されたという体験を持つ。 ● 「ヴォルガ・ドイツ人」迫害に見る スターリン時代の強制移住命令の実態 ロシアの歴史に少しでも明るい人なら、これだけでエンマが18世紀から19世紀にかけてドイツからウクライナに移住してきたヴォルガ・ドイツ人と呼ばれる人々の末裔であり、スターリンによる迫害を受けた世代であることを把握するだろう。 スターリン時代、ソ連領に住むドイツ系の人々はほぼ全員住まいを追われ、西シベリア及びカザフスタンに強制移住をさせられた。 その際、虐殺、収容所への抑留などによって多数が命を奪われた歴史の傷を負っている。エンマの故郷、ヤーゴドノエ村もドイツ人入植地として1885年に誕生したが、1941年8月28日、住民は全て移送させられ閉村となった。 追放されたエンマの一家は離散状態となり、兄姉たちの行方も知れなくなっていた。エンマは1950年、クラスノヤルスク地方からカンスクに送られる。 そこで出会ったのが、ニーナの実父キムだった。キムのことをニーナは日本の占領下にあった朝鮮からロシア沿海州に亡命してきた人物だと語っている。スターリン政権下の1937年、沿海州に住む朝鮮人も全てソ連各地に移住を強いられる迫害を受けていた。 自分の出生についてニーナはこう語った。
「1950年から1952年にかけて、カンスクで母は私の実の父、キムと出会いました。彼はとてもよい人で、母はいつもそのことを話し、覚えていました。 1955年に釈放された時、キムはどこかの地に強制退去を命じられました。彼はエンマに自分と一緒に行くことを望みましたが、その時エンマは行方不明になっていた兄や姉の居場所を見つけて、連絡が取れるようになったばかりでした。 再び肉親を失うことを恐れた彼女はキムの申し出を断るしかなかった。彼女はその時すでに私を妊娠していることを知りませんでした。そして私は1956年3月20日に生まれました。その年の4月、母と私は抑圧者の扱いから名誉回復をして社会復帰を果たしました」 ニーナの出生証明書の父親の欄は空白である。しかし、その父称はキムの名を継いだニーナという赤ん坊が、2つの迫害を越えた出生であることを証明している。 ● 心が2つに引き裂かれる苦しみ 再会が生んだ新たな葛藤とは 1997年3月、鉄五郎氏はニーナを連れて2度目の一時帰国をするのだが、事前に美代子さんから今回はホテルに泊まってほしい、との要請が来る。