「あなたは日本に帰りなさい!」ロシア人妻が泣きじゃくった悲しい理由【シベリア抑留秘話】
「鉄五郎は美代子さんと哲郎さんのことをいつも心配していた。エンマは鉄五郎に、自分の気持ちの向く方に決めるようにと言いました。彼が日本に留まるか、ロシアに戻るか、どのような決断であれそれは正しい決断と考えていました。美代子さんからの贈り物を喜んで、みんなに見せていましたよ」 だが、美代子さんは食事くらいは一緒にするが、それ以上のことはできないと協会に伝えている。その通りになったようだ。節子さんは美代子さんの苦しい胸の内を少しだけ聞き及んでいた。 「もう自分の夫ではない、と言ったそうです。会えば鉄五郎さんを苦しめるだけと思ったのでしょう。自分は再婚もしないで独りで息子を育ててきた。向こうは苦楽を共にした妻と娘、孫もいる。つらいから日本に来ないでほしいとも言ったようです。戦争のために引き裂かれた夫婦ですね」 鉄五郎氏は6度の一時帰国を行った。主な滞在先は函館の鉄雄氏のところで、ウオッカを飲みすぎると、ニーナがそれをたしなめるという親子劇が繰り広げられた。 2003年3月が、“シベリア日本人会の長老”と呼ばれていた鉄五郎氏の最後の一時帰国になる。 その後は、ニーナだけが佐藤弘氏(編集部注/「カンスク日本人会」会長)の付き添いとして定期的に一時帰国をするようになった。鉄五郎氏の小川氏あての最後の手紙が残っている。
「長い間御無沙汰致しまして申し訳有りません。……今はもう便りを書くのが大変です。いやだよ、……(ニーナが日本に)行く度に御世話になって、何とも申し訳有りません。何と御礼をして良いか私は思えば思うほど、涙で心がなんとなく悪くなるよ。 ではもう書きませんですから、何時か又、元気の時に書きます。……身体に注意して元気で長生きする様に遠いシベリヤ、カンスク町で御祈りします」(2006年と思われる) ニーナは東京に来たときには、必ず節子さんと会い、「とても親しくなりましたよ」 節子さんが亡くなったのを知った時、温かな人だったと、とても悲しんだ。 ● シベリア民間人抑留に 翻弄された女たちの涙 2010年1月、ニーナから協会あてに鉄五郎氏の最期の様子を書いた手紙が送られてきた。 「近年、父はあまり歩くことができませんでしたので、足の筋肉が萎縮し、結局壊疽になり、医者の診断で足を切断しなければとのことでしたが、本人は手術に耐えられないからと断りました。 4月から5月19日まで入院しましたが、父の状態も少し良く、父の強い希望で退院することにしました。家では血圧も安定し、落ち着いた様子になりましたのに。 亡くなる少し前には、日本で皆さんと一緒に撮った写真をずっと眺めていました。静かに眠りについたのに、朝7時に父の状態が急変し、救急車が到着した時には息を引き取っていました」