95歳、認知症の父が退院間近。入居予定の老人ホーム見学の日、あきらかに父は緊張していた
◆見学した感想がいかにも父らしい 現地に到着して入り口の前に車を停めると、私が見学した日に案内をしてくれた相談員の方がロビーの入り口で待っていた。 助手席のドアを開けた父は、用意してくれていた車椅子を一瞥し、それが不要であるのをアピールするかのように、しゃきっとした姿勢で地面に降り立ち歩き始めた。 「私は歩けますから、車椅子はいりません」 相談員の人は、父のようにプライドが高くて頑固な年寄りに何度も出会ったことがあるのかもしれない。父の意思を尊重し微笑みながら、一緒にゆっくり歩いて応接室に案内してくれた。 ソファに座りあらためてパンフレットを見せてもらうと、父は冷静に入居費用や毎月の支払方法について相談員に訊ねた。私が口を挟まずに見守っていると、父は建物の設備を早く見たいと言い出した。相談員が気を遣って聞いてくれる。 「このホームは100室以上の居室があるので、歩くと疲れるかもしれませんから、使わないとは思いますが車椅子を用意しておいていいですか?」 父には90歳過ぎまでスポーツクラブで軽い筋トレをしていたおかげで、自力で歩けるという自負が強く残っている。95歳なのだから、筋力や体力が落ちて当然なのに、どうしても認めたくないらしく、強気の返事をした。 「乗らないと思いますけど、用意するのがそちらのお仕事ならどうぞそうしてください」 私が職員なら、「感じの悪い年寄りだ」と思ってしまいそうな言動をする父が恥ずかしい。相談員の方は気を悪くしたふうでもなく、にこやかに父を先導して応接室を出た。父は幅の広い廊下が気に入ったようだ。 「建物は新しいし、廊下が広いのは気持ちいいな」 浴室を見せてもらうと、モール温泉(北海道に多い温泉)の茶色いお湯の色に満足そうな顔をしている。次に食堂を見せてもらっている時に、私は父の耳元で言った。 「厨房が見えるでしょう。調理器具がピカピカだし、調理員さんたちがてきぱきと昼ご飯の盛り付けをしているのがいいよね」 父は厨房には大して興味を示さず、相談員を急かすように言った。 「部屋を見せてください」 エレベーターで2階に着くと、父は相談員に聞いた。 「部屋まで遠いですか?」 「そうですね、エレベーターホールからはちょっとありますね」 車椅子が役に立つ時が来た。父は観念したように車椅子に乗り、廊下の両脇にある居室の番号を見ている。相談員が鍵を開けて中に入った途端、父の顔が輝いた。 「いいマンションだな。窓が広くて明るくて気持ちがいい」 父は老人ホームに入るというより、新築のマンションに入居する錯覚に陥っているらしい。このまま気に入って入居してくれたら、私も安心して過ごせるようになるのだが。 隣接した棟にあるデイサービスセンターの見学などをして、ロビーに戻ると父は車椅子から降り、相談員に言った。 「少し考えてから返事をします」 え? 私はその場で決めてくれると思っていたので動揺した。でも考えてみたら、昔から父は重要なことは時間をかけて結論を出す性格だったことを思い出した。例えば、車を買う時や家の改修工事をする時にも、今回のような返事をしていた。 老人ホームを出ると、私は父が行きたがっていた焼き肉屋に向かった。疲れたのか何もしゃべらず、黙々と肉を焼く父に一応聞いてみる。 「パパ、見学してどう思った?」 「まあまあだな」 40年前に亡くなった私の母は、父の「まあまあ」の真意がわからなくて困ると愚痴っていた。しかし、母よりも父と長くいる私は、父の「まあまあ」は良いと思っている場合に出る表現だと知っている。焼肉をパクパク口に運ぶ父を、今日はそっと見守っていたほうが良さそうだ。 食後のコーヒーを飲みながら、私は仕事の近況等の他愛ない話をして、ホームの話題を避けながら、父の心中を想像していた。 95歳になって、住居を変えるのはかなり勇気のいることなのではないだろうか。67歳の私にとっても、身近な問題となる日が近い将来やってくる。自分に置き換えて考えたら、私には父を急かすことはできなかった。 病院に送り届けると、別れ際に父は言った。 「おまえがいいと思うようにしていいぞ。俺は、あそこは嫌いではない」 老人ホームに入ることによって娘の負担を軽くしようとしてくれる親の愛に、私は胸がいっぱいになった。
森久美子
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