『蛇の道』から考える“リメイク”の意義 映像作家・黒沢清の変化を捉えるまたとない機会に
海外でも高い評価を得た傑作サイコスリラー『CURE』(1997年)を撮り上げた時期の、当時40代前半でノリに乗っていた黒沢清監督……そのほとばしる才能が十二分に発揮された異端の一作が、1998年に公開された映画『蛇の道』だった。 【写真】『蛇の道』で主演を務めた柴咲コウの撮り下ろしカット(多数あり) そんな、真に独自性の強い一作が、26年ぶりにフランスで映画化されるという、異様かつ奇跡的な企画が実現した。しかも、黒沢清監督自身による、新たなセルフリメイク作品としてである。フランス製作版『蛇の道(Le chemin du serpent)』は、果たして、どのようなバランスの作品となったのか。ここでは、それが指し示す事実や、リメイクの意義について考えていきたい。 旧作の『蛇の道』の特徴の一つは、『リング』(1998年)の脚本を手がけている高橋洋によるオリジナル脚本で、奇妙な物語が展開していくところだ。8歳の娘を殺害されたことで、その犯人を探して復讐を遂げようとする男と、復讐を親切に手伝おうとする謎の男が、誘拐、監禁、拷問を続けていく姿が描かれていく。この復讐劇のストーリーは意外な方向に転がっていき、狂った状況が次々に展開されるのである。 オリジナル版で香川照之が演じたのは、娘の復讐のためとはいえ、犯罪に手を染めることに逡巡する、気の弱い男だ。この人物は、次第に異常な状況に順応していき、復讐の対象が増えていくという事態そのものを楽しみ、暴力に酔うまでになっていく。哀川翔が演じるのは、そんな復讐をサポートするばかりか、積極的に行為に及ぼうとする人物だ。この奇妙な男が復讐に加わる理由が、物語上の大きなポイントとなっている。 意外な展開や、伏線が回収されるサプライズが用意されているという意味では、確かに映画脚本らしいギミックが存在する作品だといえるが、問題なのは、とくに説明のない異様な要素も存在しているという点である。例えば、哀川翔が演じる人物が営んでいる謎の学習塾では、さまざまな世代の男女が意味不明な数式を学習し、荒唐無稽なことを言い合っている。このような現実にはあり得ない状況が、劇中でいくつも散見されるのだ。まるでシュールなコントのようである。 黒沢清監督作品では、この後に撮られる『回路』(2000年)や『ドッペルゲンガー』(2003年)などに代表されるように、リアリティを超越した不思議なシーンが、ゴロンとした異物であるかのように、作中に置かれている場合がある。それは物語や場面の緊張を弛緩させるマイナスの効果もあるのだが、一方で、即興的に感じられる要素が作品に存在することが、娯楽映画の予定調和を破壊し、映像そのものを新鮮に味わえる効果もまた、発揮されているのだ。 このあたりの映画づくりのアプローチは、学生時代に映画評論家の蓮實重彦の薫陶を受けていたり、監督本人のマニアックな映画知識などが影響していると考えられる。娯楽的な映像作品は、脚本を効果的に映像化することで、観客を作品世界に引き込むことが大きな目標であり、それに終始する作品が大半だといえる。もちろん、そういったアプローチは悪いわけでなく、むしろ正しいとすらいえるが、それとはまた違った価値観、狙いが存在するタイプの作品もあるのである。 映画産業が「斜陽」と呼ばれ、なかなか監督業だけで生活するのが難しくなってきた、日本の映画業界のなかで、海外の映画賞を獲得するなど、世界的な評価を得ているとはいえ、このような作品づくりを続けてこられた黒沢清監督は、例外的存在だといえるのだ。このような異例の製作環境や作家的な自由が与えられたからこそ、オリジナル版『蛇の道』は、実験的な試みが反映された内容となったといえるのだ。