『蛇の道』から考える“リメイク”の意義 映像作家・黒沢清の変化を捉えるまたとない機会に
リメイク版『蛇の道』の存在価値とは
リメイク版『蛇の道』も、物語の内容はほぼ同じだ。大きく異なるのは、舞台がフランスに変わり、ダミアン・ボナール、マチュー・アマルリック、グレゴワール・コランというフランスの実力ある俳優が演じていることと、哀川翔がかつて演じたミステリアスな役柄を、柴咲コウが担当している点である。 この諸々の違いによって、いくつかの設定が必然的に変更され、観客が受ける印象もかなり違うものとなったといえるだろう。しかし最大の変更点は、オリジナル版にあった荒唐無稽な部分だったり理解しきれない要素が減って、通常の娯楽スリラーにかなり近づいたバランスになったというところだ。これにより、柴咲コウ演じるキャラクターは、哀川翔が演じたそれよりも感情移入しやすく、その行動や表情なども理解しやすいものとなった。 同時に、柴咲コウ演じるキャラクターの役割がはっきりしたことで、謎の多かった哀川翔の演じた旧キャラクターもまた、そのどこが不可欠な要素だったのかが、両者の共通点から理解できるようになったといえる。つまり、本作があることで、謎めいた部分の多かったキャラクターや、オリジナル作品の全体像も明確になったのである。 本作で極端な描写が抑えられたのには、現在の黒沢監督の作家性の反映があると見るべきだろう。黒沢作品には、確かに現在でもシュールな部分が存在しているが、後の時代になるほど、その荒唐無稽さは比較的大人しくなってきていると感じられる。より若い時代には、大胆な実験が映画づくりのモチベーションでもあったはずだが、近年は作家的成熟にともなって、どちらかといえば完成度への志向が強くなってきているのではないか。その一つの到達点として、『スパイの妻』(2020年)があったのだといえよう。 とはいえ前述したように、オリジナルの『蛇の道』が、荒唐無稽さやシュールな描写が魅力の作品だという印象が強いのも確かなことだ。そのセルフリメイクなのだから、再び実験的な作風に回帰した黒沢監督が、フランスで大暴れしてくれるのではと期待してしまうのも人情ではないか。フランス版の『蛇の道』は、そのような着地をする作品にならなかったというのは、この視点からいえば残念な部分もあるのだ。 全体がリアリティに傾いたことによって、逆に気になる部分も発生している。この物語は、もともと荒唐無稽な展開が連続する内容なのだ。それをリアル寄りに描写すればするほど、「こんな話、あり得んだろ……」と感じてしまうことにもなる。児童への虐待や搾取といった要素も、より深刻なものとして浮かび上がってしまい、そこに思想的な裏付けがとくにないということが、作品に良い影響を与えていないとも感じられるのである。 では、この作品の存在価値とは何なのだろうか。それは、このような着地を遂げたバランスを含め、黒沢清監督の現在の作家性と経験を、かつての題材でやり直してみたらどうなるのかという試み自体に収斂されるだろう。それは、庵野秀明監督が『新世紀エヴァンゲリオン』を再び制作したことにも重ねられるのではないか。 同じ題材を、異なる状態の作家が手がけることで、変質した作家性や技術的な成長などが、より分かりやすくあぶり出されることになる。それもまた、一つの実験であり、一つの挑戦ではないのか。漫画家が久しぶりに昔の連載作品のキャラクターを描いてみたり、俳優が同じ役を何十年かぶりに演じるのも、また同じことだ。「昔の方が良かった」という声も当然あるだろうし、新たな作品の方が魅力的だというファンもいるだろう。重要なのは、それを余裕をもって楽しむことではないのか。 『蛇の道』自体が、そもそも異様な作品なのである。これをいまリメイクするという発想自体も異様だが、それをしかもフランスで撮る映画の題材に選ぶというのは、笑えてくるくらい楽しい思いつきである。リアリティを高めたことによって全体のバランスが狂ったと述べたが、そのこと自体が、逆に作品の異様さをより高める結果となり、真に異常な作品になったという考え方もできる。 『蛇の道』は、新旧二つの作品を鑑賞することで、見えてくるものがいろいろとある。とりわけ、黒沢清監督という映像作家、そして時代による彼の変化を捉えるという点で、またとない機会なのである。哀川翔や柴咲コウが演じたキャラクターが、それぞれの存在があることでより両者を理解できるようになったように、日本映画における異端的な作家の特性が、本作で際立つことになったといえるだろう。
小野寺系(k.onodera)