断水しているのに「温かいお風呂とご飯」がある避難所、どうやって? 能登半島の先端で、住民とボランティアが支え合って「自立」
車中や親戚宅で数日を過ごした。途方に暮れていたところ、知り合った人に酒井さんを紹介してもらった。酒井さんは、悪路に強い四駆の自動車で来ていた。軽自動車を乗り捨て、酒井さんの車に同乗して7日朝、ようやく馬緤町に帰ることができた。 両親は無事。自分が不在だった約1週間、地域の人たちが気にかけ、食事の準備などをしてくれていたという。狩野さんは現在、自宅で寝泊まりしながら、日中は防犯担当としてセンターの避難所運営に携わっている。 「特別なスキルはないが、少しでも恩返しになれば」 センターはその後、市外などの2次避難先から一時帰宅した人の宿泊先にもなった。避難所の枠を超え、地域の拠点になりつつある。日中は仕事に出かける人も多い。 食事係という南方玲子さん(71)は毎朝、早起きして朝食を準備している。生き生きした様子で話してくれた。「皆さんに喜んで食べてもらえる。夫と2人で暮らしている時よりも忙しいくらい」
▽「この先も馬緤にいたい」 地域の立て直しに向け、住民たちは目の前の課題にも一つ一つ取り組んでいる。 生活を再建するには、まず崩れた瓦や壊れた家具などを片付ける必要がある。しかし、被災した住宅は、手つかずの状態が続いた。理由は珠洲市が指定した災害廃棄物の仮置き場の場所だ。市中心部の漁港などで、馬緤町から行くには、路面状況が悪い峠道を通らなければならなかった。高齢化が進み、個別にゴミを運ぶのは難しく、危険だ。 小さんらは市に要望を重ね、センター近くの道路脇と駐車場を一時保管場所とする許可を得た。3月中旬以降、休日を中心に、一時帰宅した住民やボランティアが協力して、片付けを進めている。 地域の再建は簡単ではない。昨年末の時点で75あった世帯数は、今年3月末時点で約20世帯に減った。3カ月以上がたってもセンターでは十数人が避難生活を送る。ただ、地震前の馬緤町は伝統の祭りなどを通じ、住民同士のつながりが強かった。避難所での共同生活を通じ、小さんは地域の結束力を再認識したと語る。
「被災で(能登の)限界集落の厳しい状況が進んだ側面はあると思うが、この先も馬緤にいたい気持ちは変わらない。全てを行政に頼るのではなく、できる限り自立したい」