「相場はゴッド・ノーズ」米価と格闘した若き日の怪物経営者 河合良成(上)
役人最初の仕事は地方取引所の監督
話を河合に戻そう。河合が東京帝国大学法学部を卒業して農商務省に入るのが明治44(1911)年、最初に手掛けたのは取引所の監督であった。当時、米穀取引所は全国に二十数か所あったが、東京米穀商品取引所と大阪堂島米穀取引所が図抜けていて、この2つを除いては取引高も少なく、存在理由も今一つだった。少なくとも河合の目にはそう映った。そんなローカル市場は一種の賭博場のように見えたので、地方取引所の許可更新の必要はないと見定めていた。 「われわれが監督官として数回にわたって地方取引所の調査をやって、独立性の有無を調べて、継続許可に対する材料を集めた。地方取引所はほとんど継続を否定して差し支えないという事情であった」(河合良成著『明治の一青年像』) ところが、結果としてはそっくりそのまま許可更新が行われ、継続されるところとなる。河合の知らないところで、政治家の手によって地方取引所は存続された。地方都市繁栄のためには、取引所がどうしても必要であって、賭博場的雰囲気ではあっても、「ネセサリーイーブル」(必要悪)とされていた。河合はしばしば紛争処理のため地方にも出張した。 「時々桑名や佐賀などの米穀取引所で買占めが起きたり、仲買人の破綻が起きたり、重役の争奪などの問題が起きたり、その度毎地方に飛んで行って調査し、地方長官と協議したり、財産の検査にも行き、金庫の封印などもやった」
官民一体で蚕糸救済、中心で働いた河合
大正3(1914)年、第1次世界大戦が勃発し、蚕糸相場が大暴落。河合は糸価対策に奔走する。 「時の政府はこれを救済するため帝国蚕糸株式会社を設立することになり、私がその企画立案から設立、運営に関係した。そのことがあった以来、私はその名を官・政・財界で知られ、農商務行政の一中心人物として注目されるようになった」(河合良成著『明治の一青年像』) 当時、生糸は「輸出の大宗」と称され、日本経済の大黒柱で、その市況は日本の運命を左右するバロメーターでもあった。横浜の生糸商、原富太郎(とみたろう)や茂木惣兵衛(もぎ・そうべえ)の提案をもとに生糸の買い上げ機関として帝国蚕糸株式会社が設立され、政府が多額の公的資金を出し、官民一体となって蚕糸救済に乗り出す。この時の政府側の中心人物が、入省3年目の河合青年であった。 500万円の政府出資金(金券)をポケットに入れて横浜へ乗り込むことになると、同僚から「五百万円の大金をポケットに入れるなどは、一生涯ないことだから今日は君がおごれよ」などといわれ、農商務省の高等食堂でご馳走したという。この市況対策の効果はてき面、瞬く間に生糸相場は息を吹き返し、政府には169万円余の利益金が入る。河合はこの功績で勲六等旭日章と一時金250円を下賜される。=敬称略