「相場はゴッド・ノーズ」米価と格闘した若き日の怪物経営者 河合良成(上)
相場は「ゴッド・ノーズ(God knows)」――。小松製作所を世界的メーカーへと押し上げた大正・昭和の実業家の河合良成(かわい・よしなり)は、相場の不可思議さをこう表現したといいます。 【画像】戦後景気で長者番付入り 株の失敗経験生かす 南俊二(下) 越中米の年貢収納地だった現在の富山県に生まれ、米騒動の際には若手官僚として下がらない米価と格闘。郷誠之助に誘われて入った東京株式取引所(東株)では、第1次世界大戦後の歴史的大暴落への対応にもがき、昭和初期の大疑獄事件である帝人事件にも巻き込まれました。戦後は国会議員にもなり、吉田内閣で厚生相を務めた河合は、日中、日ソの経済交流にも尽力しました。 怪物経営者と呼ばれ、相場と闘い、翻弄された河合。市場経済研究所の鍋島高明さんが、農商務省の若手官僚時代を解説します。3回連載「野心の経済人」河合良成編の第1回です。
若手官僚として米騒動下で米価と格闘
河合良成は富山県出身、清廉政治家として知られる松村謙三(まつむら・けんぞう)の生家とは隣り合わせだった。農商務省書記官、東京株式取引所常務理事、東大講師、満州国顧問、東京市助役、貴族院議員、第1次吉田内閣厚生相、第百生命社長、小松製作所社長、衆議院議員……。この間、帝人事件(※)に連座して逮捕されるが無罪となり、政界の黒幕的存在として活動。日中、日ソ経済交流でも足跡を残す。その多彩な業績から、人は河合のことを怪物経営者と呼ぶ。小松製作所をブルドーザーのトップメーカとして国際企業に飛躍させた凄腕でもある。 (※)帝人事件…帝人の株式売買をめぐる昭和初期の疑獄事件。1934(昭和9)年、帝人首脳や大蔵次官らが背任・贈収賄などの罪で逮捕された。時の斉藤実(まこと)内閣の総辞職につながったが、逮捕者は全員無罪となった。 大正の米騒動(1918年)下で、河合は農商務省の若手官僚として米価と格闘する。蚕糸(さんし)市場とも深くかかわりを持ち、この時の経験が後に東京株式取引所常務理事として、市場運営に生かされる。 河合良成のふるさとである福光(現在の富山県南砺市)は、百万石を誇る加賀・前田藩のヒンターランド(経済後背地)であった。金沢の東隣に位置し、越中米の年貢収納地であったからだ。そして江戸後期の豪商、銭屋五兵衛(※)(ぜにや・ごへえ)の経済活動の基盤であった。後年、河合は生まれ故郷を自慢気に回想している。 「銭屋五兵衛が回漕(かいそう)問屋として幾隻かの船舶を所有し、沖ノ島や沖縄列島を中継地としてフィリピンのルソン島などとの間に盛んに密貿易を行っていたことは、史上有名なことである。そしてかの地への輸出品として生糸及びその製品、輸入品として砂糖、麻など、その他に銃器類も入っていた。この輸出の大宗である生糸類の供給の中心地が私の生まれた福光地方であった」(河合良成著『明治の一青年像』) 銭屋五兵衛(1773~1852)とは、江戸時代末期の加賀の豪商で海運業者。代々、両替商を営み「銭屋」と号し、北前船(きたまえぶね)全盛期に巨利を博して、「海の百万石」との異名を持った人物だ。天保年間(1830~44)には、藩の執政・奥村栄実に登用され、御用金調達に任じられた。いわゆる密貿易による巨富獲得については伝説化された部分が多いが、大阪廻米、米相場で儲けたのが真相らしい。晩年、河北潟の干拓工事に絡む藩の政争に巻き込まれ、80歳で獄死した。