ペリー来航の際、昼食で90品を超えるフルコースに登場した果物は…日本人にもっとも親しみのある果物の歴史を辿る
◆温州みかんを世界に紹介したのはかのシーボルト なお、温州みかんの存在をはじめて海外に紹介したのは、長崎で鳴滝塾を開いたあのシーボルト。1835年に発表した『日本植物誌』のなかで、Nagashima-mikanと記している。 温州みかんの名前が一般的になったのは、幕末から明治にかけてである。温州という名が使われたのは、1848年(嘉永元年)に本草学者の岡村尚謙が『桂園橘譜(けいえんきっぷ)』のなかで、「温州橘は俗に種なし蜜柑といふ」、と記したのが文献上は最古だ。 温州みかんの苗木がはじめてアメリカに持ち込まれたのは、1876年(明治9年)であった。日本茶を最初にアメリカに輸出した貿易商ジョージ・R・ホールによってであり、彼がUnshiuと名づけた。 続く1878年には、幕末から明治初頭にかけて駐日米国公使を務めたロバート・ヴァン・ヴァルケンバーグが、苗木をフロリダの自宅に送っている。日本で過ごした際に妻アンナが温州みかんをとても気に入っていたためだ。 Satsumaと名づけたのはアンナの発案だったという。UnshiuよりもSatsumaのほうが定着し、これ以降大量の苗木が鹿児島県からアメリカに輸出されるようになった。 2016年(平成28年)に国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)は、ゲノム解析によって、温州みかんは紀州みかんにクネンボが交配されてできたと推定されると報告した。 八代から長島までは、海路で約55km。小みかんが長島に伝わったのは早かったと考えられる。 温州みかんは中国からやってきた種子ではなく、長島で小みかんとクネンボが自然交雑した種子起源であった可能性が高まった。
◆ペリー一行へのもてなし料理に用いられたクネンボ(九年母) クネンボは漢字では九年母。インドシナ半島原産で琉球を経て日本にやってきた品種だ。 ペリー艦隊が大船団で2度目の来航をした1854年(嘉永7年)3月8日、日米和親条約の締結交渉開始時に、横浜応接所でペリー一行にふるまわれた饗応膳(きょうおうぜん)がある。 この昼食は、ペリー一行300人と日本側の役人200人の計500名分、酒宴から始まる全90品を超えるフルコースの本膳料理であった。 価格は1名分が3両。当時の1両を米価でいまの物価に換算すると約5万円になる。この日の昼食だけに7500万円ぐらいがかけられたというわけだ。 口取り肴に当たる硯蓋(すずりぶた)には、伊達巻鮨、うすらい鮨、河茸(かわたけ)・千切昆布、花形長芋、九年母、紅蒲鉾(べにかまぼこ)が並んだ。関東では、クネンボがおいしい柑橘の代表であったことを物語っている。 この会食の様子は高川文筌(たかがわぶんせん)によって描かれた。横浜応接所は、山下公園近く、横浜開港資料館のあたりに建てられていた。 ペリー側が贈り物として運んできた4分の1スケールの蒸気機関車を運転してみせたのは、それから13日後であった。
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