人口減少、文化による解決できないか ── 逸脱の空間と文化的野性の復活
「家とやど」の視点から ── 逸脱の空間の復権 ──
筆者は「文学の中の建築」の研究から、「家とやど」という一種の文化論を立てている。 古代日本文学において「家」という言葉と「やど」という言葉はほぼ同義語として使われ、平安貴族は、和歌の中で自分の住まいを「わがやど」と表現した。よく調べると、「家」は社会制度の中の、人に関わる住まいを意味し、「やど」はそこから逸脱する、美意識の住まいを意味したのだ。中世、社会制度の枠組みを外れたアジール(権力の及ばない居住地)を「宿(しゅく)」と呼んだのも(網野善彦『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』など参照)、千利休が大成した茶道の空間(茶室)が、俗世間を離れた山里の素朴な草の庵(いおり)を基本とするのも、その「やど」の系譜にある(拙著『「家」と「やど」―建築からの文化論』朝日新聞社刊参照)。 つまり「やど」とは、逸脱の空間であり、風流の空間であり、色事の空間でもあった(拙著『遊蕩の空間―中村遊廓の数奇とモダン 』INAX ALBUM参照)。 歴史を大きく眺めれば、明治以後のヨーロッパにならった近代国家体制の樹立は、奈良時代の中国にならった律令国家体制の樹立に似た構造である。そうした文明化によって形成された一つの社会制度が長くつづくことによって、日本文化の集団性としての「家」が硬直化し、管理化し、ダイナミズムを失っていく。現代は、平安末期や江戸末期と同様、社会制度としての「家」の硬直化が進み「やど」が弱体化しているように思える。 イジメや過労死や官僚の忖度が問題になるのも、逃れる先のない「家」の呪縛が原因ではないか。 少子化は女性の社会進出とともに語られる傾向にあるが、むしろ男性の問題かもしれない。必要なことは、日本社会に、逸脱の空間としての「やど」を復権させ、文化的野性を回復することではなかろうか。