人口減少、文化による解決できないか ── 逸脱の空間と文化的野性の復活
家族の均質化による文化的野性の喪失
近代化によって、その社会における「個人」が強くなったというのが一般的な認識であるが、それとともに「国家」と「家族」が強化され定型化したと筆者は考える。 近代以前の日本には、家族と国家のあいだに、大名(藩)、氏族(一族郎党)、村落共同体など、もろもろの「家」的な集団性が存在した。明治以後も、もともと子沢山の上に、祖父祖母、叔父叔母、兄弟姉妹とその家族なども一緒に住んでいたり、お手伝いさん、書生、運転手などもいて大家族が普通であった。 戦後の平等化と平均化によって、日本の家族は、型に入れられたように、両親と子供2人の「核家族」に向かう。『パパ大好き』『うちのママは世界一』などアメリカのテレビドラマに見るような家庭が理想となったが、家の広さが違う。団地の2DKを典型とする狭い家に、電化製品が次々ともちこまれた。この「狭い家の圧迫」が、日本の家族数を抑える直接的な原因であったのではないか。 それがようやくマンションになり、建て売りになり、今では住宅の数は余っているというが、それは統計上のことであって、通勤時間と広さの点ではどうだろう。「狭い家の圧迫」はつづいている。また人間はそうそう型にハマったものではない。結婚しない者も、子をもたない者も、家をもたない者もいるのだから、核家族標準では人口減少になる可能性が高いのだ。 この過程で日本の「家」は、管理され、保護され、小さく型にはまったものとなり、「文化的野性」を失っていったような気がする。
東京を世界の文化首都に
家族制度の均質化と同様、国家制度が硬直化することによって、社会がダイナミズムを失い人口エネルギーが衰退した。島国は過剰に管理化されやすい。国家もまた「文化的野性」を失っていったのだ。 この硬直した国家制度に柔軟性を回復するには、大きな社会変動を伴うが、比較的穏健に実行できそうなのは道州制で、東京一極集中を是正する意味でも、それなりの説得力はある。 しかし一極集中を是正する政策は、これまでの全国総合開発計画でも常に提唱されてきたが、さほど有効打とはならなかったのだ。これを政治的経済的にではなく、文化的に考えることはできないだろうか。東京と地方との綱引きのようなことでもなく、中央集権から地方分権へということでもなく、日本の「家」の基盤を地方に置き、東京はその出張先として、つまり「やど」(「家とやど」については後述する)として、政治経済よりも文化の首都として位置づけることはできないだろうか。 東京も現在は、かつてのようにスプロール的に拡大するのではなく、都心に集中する傾向である。しかし人間は都心だけで満足できるものではない。都心回帰は、逆に自然回帰に結びつき、地方回帰にも結びつくと筆者は考えている。 荻生徂徠は江戸人の住まいを、本来の日本の「家」ではなく「旅宿(りょしゅく)」であると位置づけた(『政談』)。 筆者は現在、東京をパリ(特にベルエポックと呼ばれた19世紀末から20世紀初頭の)のような世界の文化首都にする方策を思案しているが、パリにも東京にも、そういった旅宿としての歴史があるのだ。