かつて「塀」の地図記号は10種類もあった!当時はひたすら歩いて現地調査。地形図を精密に描いた<明治ならでは>の理由とは
◆鉄柵、木柵、埒、生籬の記号 (5)鉄柵と(6)木柵は説明するまでもないだろう。いずれも塀ではないので見通しが利く。見通しの有無については、後述するように軍事的な理由での重要性があった。 (7)の埒そのものは耳にすることが滅多になくなったが、「不埒な奴」とか「埒が明かない」として使われる。 要するに馬場の柵であるが、競(くら)べ馬を見に来た観客が競走の開始、つまり埒が明く(外される)のを待ちわびて発した言葉ともいう。 『地形図之読方』によれば「鉄鎖ヨリ成ルモノ及玉垣等モ亦之ヲ以テ示ス」としている。 玉垣は神社を取り囲む隙間のある石の垣根(瑞垣<みずがき>)で、石柱に寄進者の名前などがズラリと刻まれているあれだ。 ついでながら、駅の改札のことを鉄道業界ではラッチと呼ぶ。英語のlatch(閂<かんぬき>、留め金などの意)に由来するという正統派説の他に、「『埒』が転じた」とする説もあるようだ。 下北沢駅(東京都世田谷区)では最近まで小田急線と京王井の頭線の間に改札がなく、「以前はノーラッチで乗り換えられたのに」、小田急の地下化で改札が二つ新設された今は「ラチが明かない」と嘆く人も多い。 (8)の生籬は現在では生垣と書くことが多い。植物を植えたものを垣根にしているので、気候風土や流行も影響するから多種多様だ。 多摩地区にある拙宅付近では、古くからの農家に「カシクネ」と呼ばれるシラカシの垣根が目立つ。 近所には雑木林もあり、シラカシのドングリはいくらでも拾うことができ、拙宅でも息子がまだ幼児だった頃にこれをプランターにいくつも埋めておいたら何本かが育ち、門前に移植した2本が今も健在だ。 大正時代の色刷りの1万分の1地形図ではこの記号だけ他の塀関連記号と違って緑色となっており、これで彩られたお屋敷町などは独特な色合いで当時の風景を想像させてくれる。
◆市街地の地形図に手間をかけた理由 さて、(9)の壘石囲は滅多に目にしない字面だ。大正時代でも一般的ではなかったようで、『地形図之読方』でも詳しい説明がある。 曰く「粗石ヲ規正ナル形ニ堆積シテ構囲ヲ成形スルモノヲ謂フ。但シ灰砂ヲ以テ粗石ヲ膠着シ、高ク積テ牆ヲ成スモノノ如キハかん工牆ニ依リテ示ス」そうだ。 要するに石をきちんと積んだ囲いだが、漆喰やセメントなど目地で固めたものは(1)のかん工牆の記号で示す。 そもそも明治の頃は当然ながら空中写真の撮影ができないから、現地調査はひたすら歩いて状況を観察するしかなかった。 1枚の地形図を作るにあたってこの手間のかけ方はまさに鬼気迫るが、なぜそれほどまでして市街地の状況を詳細に把握したのだろうか。 これは地形図を作っていた陸地測量部が陸軍の組織であり、軍事行動の役に立つことを重視したからだと考えられる。 戦時中に同部に所属したあるOBの方からいただいた作図マニュアル『地形図図式詳解』がヒントになった。 これには「砕部[細部=引用者注]ノ軍事上ニ於ケル価値」とする章が設けられており、「居住地ノ戦術上ニ於ケル価値ハ概ネ森林ニ同シキモ石或ハ煉瓦等ノ家屋、構囲、高層建築物及広キ空地等ハ戦闘ノ為屡々(しばしば)利用セラルルコトアリ」と記してあり、市街戦などが生じた場合に重要となる「隠れ場所」をわかりやすく表示し、その場所の景色を適切に描いた地形図の重要性を説いている。 さらに各記号の描き方を細かく規定した中で、「構囲」の記号の使い方は「遮蔽障碍ノ景況ヲ現ハシ、且用図目標ノ為要用ナルモノヲ示スモノ」であり、縮尺によっては全部まるごと描けば煩雑になるばかりなので、「図観ヲ煩雑ニスルノ虞(おそれ)アルトキハ適宜之ヲ省クヘシ」とし、さらにその基準として一万分の一地形図では「かん工牆・牆」は長さが図上3ミリ以上(2万5千分の1も同じ)、柵や土囲については高さ1メートル以上(2万5千分の1では2メートル以上)などと実に細かく規定していた。 要するに図を見れば、たちどころに現代のグーグルのストリートビューが脳内に立ち上がるかのように記号を運用せよ、というのが地図製作者に対する高度な課題だったのである。 それでも、これだけ精密に市街地を描いてくれたおかげで、私たちは100年以上も前の町の風景を、横町の隅々まで詳細に再現できる幸運を味わうことができている。 ただし、読む方も記号とその運用についてちゃんと勉強していればという話だが。 塀の記号の廃止は地形図図式の簡素化の一例に過ぎないが、パソコンで現地のものが何でも見られる今、「景色」をあえて記号化する必然性が薄れてきたのは間違いない。 ※本稿は、『地図記号のひみつ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
今尾恵介