大仁田厚、聖地での50周年記念試合でドリー&西村に敗れるも「古希電流爆破を目標に頑張っていきます」と決意【FMWE】
FMWEが8月24日、神奈川・富士通スタジアム川崎(旧川崎球場)で「テリー・ファンク一周忌追悼・大仁田厚デビュー50周年記念大会『川崎伝説2024』」を開催。50周年記念試合で大仁田厚は“盟友”雷神矢口とのコンビで、ドリー・ファンク・ジュニア、西村修組と対戦するも敗れた。 1973年に全日本プロレスに“新弟子第1号”として入門した大仁田は翌1974年4月14日、東京・後楽園ホールでの佐藤昭雄戦でデビュー。米国遠征中の1982年3月7日、ノースカロライナ州シャーロットでは、“兄貴分”テリー・ファンクの推薦でチャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦しベルト奪取に成功。帰国後は全日本のジュニア戦線をけん引したが、1983年4月20日、東京都体育館でのヘクター・ゲレロとの防衛戦に勝利した後、左膝蓋(しつがい)骨粉砕骨折の重傷を負い長期欠場。一度は復帰するものの、ケガをする前のファイトはできず、1985年1月3日に引退。 1988年12月にジャパン女子プロレスのリングで復帰し、1989年10月にFMWを旗揚げ。有刺鉄線や電流爆破を用いた独自の試合形式が人気を博し、同団体の隆盛を築き、ビッグマッチの際に満員の観客を動員した川崎球場は大仁田にとっての“聖地”となった。だが、その肉体は極限に達し、1995年5月5日、川崎球場でのハヤブサ戦で2度目の引退。
1996年12月11日、ミスター・ポーゴの引退試合で二度目の復帰を果たす。FMWから飛び出すと、新日本プロレスとたった一人での戦いに挑む。2001年には参院選で初当選し1期務めた。その後、引退、復帰を繰り返したが、2012年に本格復帰すると、曙、高山善廣らと電流爆破で名勝負を繰り広げ、初代タイガーマスクとも抗争した。2017年10月に7度目の引退をするも、1年後に7度目の復帰。2019年2月には両ヒザの人工関節置換術を受け、昨年5月には腹部大動脈りゅうの手術を受けるなど満身創いの体ながらも、古巣・全日本のリングで初の電流爆破デスマッチを敢行するなど、66歳の今でも大暴れを続けている。 当初、50周年興行のリングにはテリーの招へいを熱望していたが、昨年8月23日(日本時間24日)にテリーが亡くなった。聖地での記念興行を開催すべく動いた結果、会場側から指定された日程はテリーの命日である、日本時間の8月24日。運命的な事態に大仁田はテリーの1周忌追悼と兄ドリーの招へいを決断。83歳と高齢のドリーだが、大仁田の熱意にほだされ電流爆破のリングに立つ決意を固めた。これが最後の来日、最後の日本での試合になるのは確実だ。そして、ステージ4のがんと闘病中ながら、師匠ドリーを守るべく西村がパートナーとして出陣を決めた。