鬼木達監督の川崎退任までの知られざる8年。家族との涙の食事やタイで連絡を受けた父との別れ【特別インタビュー】
記憶に残るタイでの一戦
鬼木監督にとって父の存在も大きかったという。 「父は昔の人で、それこそ亭主関白と言われるような存在でした。だから子どもながらに恐がっていた部分もあったんです。小学校の時にサッカーで全国大会に行って優秀選手に選ばれたりもしましたが、父が見に来てくれることはなかったです。ただ、中学時代にサッカーとの向き合い方が微妙な時があって、サッカーより遊びのほうに意識がいった際にはすごく怒られたのを覚えています。 一方で高校で名門の市船に入れた際にも何か言ってくれることはなかったです。本当、家族みんなが機嫌を気にするような、帰ってきたらテレビのリモコンを渡さなくてはいけないような、そんな父だったんですよ。曲がったことも大嫌いで、挨拶なども大事にし、自分に関係ないことであっても、気になったことがあれば誰でも注意する。そして何より仕事をしっかりする父でした。その影響はかなり大きく受けていますね。 そんな父が、僕がサッカーでプロになりますって時から急に変わったんですよ。当時はJリーグ元年で、サッカーのプロ選手になれるなんて想像もできなかった時代。でも、父はひとりの社会人として認めてくれたと言いますか。僕の兄は大学に行ったのですが、僕は高卒で鹿島に入団したので、大学費用として貯めていたお金も『お前にやる。それでなんでも良いから買え』と。 そんな父は車を持っていなかったのですが、当時、歳も取っていたのに、僕が鹿島に入ったら免許を取り、車で鹿島まで応援に来てくれるようになりました。そういう熱量も持っていた人でした。(2017年の川崎での)初優勝の際にもスタジアムに来てくれていたらしいんですよね」 昨秋、そんな偉大な父との知られざる別れもあった。当時はACLでタイへ遠征に行っている時であった。 「あれは、チャナ(チャナティップ/元川崎)が所属していたパトゥムと対戦した時ですかね。試合前日の朝、父が亡くなったと連絡を受けて。そのあとすぐに公式会見があったんですよ。そこでチャナとも再会して、あの笑顔に少し元気をもらった部分もありました。 実はタイに行く前に、実家に帰って、父が入院する病院にも行っていたんです。その時は意識がなかったんですが、『これから頑張ってくるよ』と声を掛けたり、お礼を言ったりしました。こういう世界で戦っていると、親の死に目にも会えないことがあると覚悟していましたが、あの時の試合後(4-2で勝利)には、何か心にくるものがありましたね。 それで帰国してすぐにリーグの柏戦があって、その後に実家に帰ったりしていました。思うところはそりゃありましたが、監督はそこを見せちゃいけない。選手だったら『絶対にすぐ帰れ』って言いますが、監督は別ものですから。 でも、振り返れば、やっぱり父は背中で見せてくれる人だった。ただ、不思議なんですよ、一緒にいる時には、こういう感じにはなりたくないと思っていたけど、客観的に見ると、頑固なところや、曲がったことが嫌いな性格は、すごく似ちゃっている。一方で息子たちは僕に似ていないような気がするんですけどね(笑)。でも彼らは彼らで本当にまっすぐ育ってくれた。嬉しい限りです」 勝負師とは常にポーカーフェイスでいなくてはいけないという。そう考えると、監督とはやはり難儀な職業である。鬼木監督は、この8年、その点も常に意識してきたという。 「監督ってやっぱりめちゃくちゃ見られるじゃないですか。例えば、以前に喉を壊して、(寺田)周平(当時コーチ/現・福島監督)に指示を出してもらった時があったじゃないですか。その時も『ストレスが原因か?』なんて言われたりして。実際はただ、喉の調子が悪かっただけなんですよ。でも、監督のちょっとした変化は騒がれてしまう。 ダイエットをして少し瘦せただけで、調子が悪いのか、とか言われちゃいますしね。だからこそ、体調管理は監督に就任した時から、めちゃくちゃ気を付けてきました。変な話、見た目もいつも若々しくないといけない、と身だしなみも昔より意識したりして。 それこそちょっと疲れている表情や、なんでもない溜息などを、選手やスタッフが見ると、『あれ?』ってなってしまい、話が広がってしまう。コーチ時代もやっぱりそうした声って耳に入ってくるんですよ。だから、かなり気を付けてきましたね」 表に見えない努力、涙、葛藤を抱えながら挑み続けてきた監督としての生活。そう考えるだけでもこの8年は尊いものに見えてくる。そして荒波のような日々を乗り越えられたのはやはり家族ら周囲の支えがあってこそだったのだろう。 (第2回に続く) 取材・文●本田健介(サッカーダイジェスト編集部) ■プロフィール おにき・とおる/74年4月20日生まれ、千葉県出身。現役時代は鹿島や川崎でボランチとして活躍。17年に川崎の監督に就任すると悲願のリーグ制覇を達成。その後も数々のタイトルをもたらした。“オニさん”の愛称で親しまれ、今季限りで退任。