軍艦島の「半地下の食堂」から「独身女子寮」まで日曜劇場の再現度は驚異的…家賃ゼロの炭鉱夫の破格の収入は
■ドラマでは、戦後のストライキの様子もかなりリアルに再現 端島は三菱鉱業が所有する島だった。戦前はかなり劣悪な労働環境で、労使間で暴動や自然発生的サボタージュ、ストライキなどが頻発していたという。 WEBサイト「軍艦島の真実」にある端島に関する年表によると、1897(明治30)年4月には炭鉱夫約3000人による11日間にわたる大規模なストライキが起きたという。納屋頭2人が殺害され、警官40人以上が出動したというものだった。 しかし、太平洋戦争後の1946(昭和21)年に端島にも労働組合が設立され、労働条件が向上。8時間勤務の1日3交代制が実現した。また、国の石炭増産政策などにより、労働者の数とともに島の人口も増加し、生活環境の改善も図られていった。 1950年代に入ると、三井三池争議に象徴されるように日本各地で労働争議が激しくなる。第5話で描かれたように、端島にもその波がやってくる。「軍艦島の真実」によると、1956(昭和31)年に労働組合がストライキを起こしたことに対し、会社側はロックアウト(労働者の職場からの締め出し)を実施した。 WEBサイト「軍艦島デジタルミュージアム」に掲載されている、当時端島や高島で働いていた松浦さんの講演記事には、当時の労働争議のリアルな話が載っている。 近くにあった三菱の高島炭鉱では組合側の力が強く、1958(昭和33)年に起きた労働争議はかなり激化した。 しかし、端島が加わっていた全炭鉱組合は、比較的会社側に協力的だった。「一山一家」という家族主義的コミュニティを築いていたことも影響していたのかもしれない。端島炭鉱では、三菱側も「労使問題のない三菱」のイメージを打ち出してなるべく労使の争いを穏便にすませたいという思惑もあり、激しい労働争議の話は表立って出てこない。 ■炭鉱夫は家賃ゼロで給与は約4倍という好待遇 端島では鉱員の暮らしぶりは悪くはなかったようで、そのことも労働争議が激しくならなかった要因のひとつだろう。 家賃はかからず、水道光熱費は1959(昭和34)年時点で10円程度だった。当時の国内の6畳1間共同トイレ風呂なしのアパートの家賃が平均3000円だったので、かなり恵まれていたといえる。 1972(昭和47)年当時でみると、新卒の月給が5~6万円程度だったのに対し、端島では月約20万円を受け取っていたのだ。収入を見ても、生活環境を見ても、かなり好待遇だったといえるのではないだろうか。 島内のアパートには部屋ごとにかまどがあったが、それもやがてプロパンガスが使われるようになり、プロパンガスは2個まで無料で配布された。電化が進むと、国内ではまだ一般家庭にテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の三種の神器が広まっていなかった時期に、端島では普及率がほぼ100%だったという。