軍艦島の「半地下の食堂」から「独身女子寮」まで日曜劇場の再現度は驚異的…家賃ゼロの炭鉱夫の破格の収入は
■同じ島民でも職種により生活環境は異なっていた 当時の端島では、三菱鉱業の管理職や職員、鉱員、島の生活を支える商店などの立場の違いで、生活環境も大きく異なった。 炭鉱長の息子である賢将(清水尋也)の家は、応接室などもある島内唯一の戸建て住宅だが、鉱員の息子だった鉄平(神木隆之介)の家は高層建築に長屋のような狭い住宅がたくさん並ぶ、鉱員住宅だ。風呂などはもちろんなく、トイレも共同だった。 『カラーでよみがえる軍艦島』には、元島民の石川東(あずま)さんのインタビューが掲載されていて、当時の暮らしを語っている。 「6畳と4畳半の二間に、両親と祖父、兄弟5人の家族8人で暮らしていました。48号棟に入居した当時はたいした家電もなくて、高校までは毎朝、かまどで薪を燃やしてご飯をたいていました」(同書) 当時、端島といえば日本最先端の環境が整った先進的な生活だった、というイメージで語られることが多いが、家庭によっても多少異なっていたのだろうか。 ピーク時には南北約480m、東西約160mの小さな島に約5300人が暮らし、人口密度は世界一とされた。その当時の様子が、見事に再現されているのだ。 ■台風を怖がっていては本物の島民になれない? 第2話では、端島を大型の台風9号が襲った。寺の1階に暮らしていたリナとともに多くの島民が本堂に避難し、防波堤を越えてくる高波の浸水を防ぐため、朝子が食堂の前に土嚢(どのう)を懸命に積む様子が描かれていた。 しかし、当時の人々は脅威を感じていたばかりでもないようだ。 「ただ、端島の住民にとって脅威だったはずの高波は、日常の光景の一部であったのもまた事実だ。台風が島に接近した際に危険なのにもかかわらず、大波見物に出向く住民も少なくなかったようだ。『台風を怖がっていては本物の島民にはなれない』とも言われていたらしい。」(同書) 実際に、1956(昭和31)年と1959(昭和34)年には、大型の台風が端島に上陸し、大きな被害をもたらしている。1956(昭和31)年の台風9号では島の南側と西側の護岸が約100mにわたって崩壊し、木造の商店なども被害を受けた。 このときは波高8mもの大波がたたきつけたという。また、真水運搬船がやってこないことで、島の飲料水が枯渇するのも実際にあった大きな問題だった。