【そろそろ予習する?】蔦屋重三郎が暮らした吉原は遊女の苦界(くがい)
小林 明
1月5日からスタートするNHK新大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』 は、「江戸のメディア王」といわれた地本問屋(娯楽本を出版した版元)蔦屋重三郎(以下、蔦重)が主人公だ。蔦重を理解するうえでのキーワードが、生まれ育った「吉原」である。遊廓として知られるこの町は、いかなる場所だったのか。
不夜城現る
吉原は江戸で唯一、幕府に公認された遊廓=売春地区である。江戸に誕生した当時は日本橋葺屋町(現・中央区日本橋人形町)の辺りにあった。今も「元吉原」の案内板が立っている。 徳川家康は1590(天正18)年に入府すると、江戸の町の開発に乗り出した。土木工事には多くの労働力が必要なため全国から男が集まり、男たち相手の売春宿があちこちに出現した。 売春が横行しては治安が乱れると幕府から指摘され、女郎屋の経営者たちが相談し、ひとつの場所に公認の遊廓を設置することを願い出た。1617(元和3)年に許可され、翌年、遊廓が誕生した。時の徳川将軍は2代・秀忠だった。
埋め立てで街区を拡大していた江戸には湿地帯が多かった。遊郭ができた地も、葭(ヨシ)の群生地だったので、葭原と呼ばれた。俗説によれば、縁起担ぎで「吉」の字を当てるようになり、今の「吉原」となったようだ。 しかし、江戸のど真ん中に遊廓があっては都合が悪いと、明暦2(1656)年に北へ約6キロほどの場所に移転を命じられ、翌年から営業を再開した。現在、酉の市でにぎわう浅草・鷲神社の裏手(現・台東区千束)の辺りだ。幕府は移転費用として1万5000両を与え、人形町時代には禁じていた夜間営業も許可。のどかな田園地帯に突如、不夜城のごとき遊廓が誕生したのである。絵図『東都吉原一覧』は、次のような句を添えている。 「闇の夜は よし原ばかり 月夜かな」(闇の夜でも吉原は月が出ているように明るい)
見取り図で見る遊廓の構造
元吉原が2丁(約220メートル)四方だったのに対し、新吉原は2丁×3丁と、1.5倍の規模に拡大。およそ東京ドーム2個分ほどのエリアだった。 妓楼は店の規模や在籍する遊女のレベルによって大見世・中見世・小見世と厳密に格付けされていた。当然、揚代(料金)も異なった。作成年代は不明だが『新吉原之図』は、信ぴょう性が高いと考えられる吉原の見取り図だ。 (1)五十間道(ごじっけんみち)/ 吉原に向かう道。蔦重は、1773(安永2)年、この道の左側の中ほどに貸本屋を出店したと考えられている (2)大門 / 門の右側には吉原が設置した私的な番所、左側には奉行者が管理する公的な番所があり、見張りが駐在して遊女が逃亡しないよう見張った (3)仲の町 / メインストリート (4)江戸町1丁目(右)~江戸町2丁目(左) / 格式の高い妓楼(ぎろう)である大見世を中心に中見世・小見世がひしめく (5)角町 / 中見世と小見世のエリアで大見世はない (6)揚屋町 / 料理屋や湯屋がひしめき、妓楼に出入りする商人や芸人などの居住区でもあった (7)京町2丁目 / 格の低い妓楼の地区 (8)京町1丁目 / 江戸町と並んで格が高い (9)表通り / 仲の町から木戸を抜け、各町の間の横道に入ると表通りで、客が遊女たちを格子越しに品定めする座敷「張見世」があった (10)(11)西河岸(右)・羅生門河岸(左) / 最下層の遊女が在籍する「河岸見世」が並ぶ裏通り (12)伏見町 / 大門をくぐってすぐ左の区画で、小見世より格安の「局見世」と呼ばれる遊女屋が軒を連ねる (13)お歯黒どぶ / 遊廓を囲む塀の外側に巡らされた溝(どぶ)。文献によってばらつきがあるが、深さ約2メートル、幅3~9メートルだったと推測される。遊女の逃亡を防ぐ目的だったが、どぶの数カ所に折りたたみ式跳ね橋を架け、非常口としても機能していたようだ。 (14)九郎助稲荷 / 廓の四隅に稲荷社があったが、なかでも九郎助稲荷は遊女が篤く信仰した 大見世は通りに面した張見世の仕切り全体が格子となっており、これを「惣籬=そうまがき」といった。籬とは垣根のこと。中見世は格子の右上4分の1が空いている「半籬」(1番目の画像参照)。小見世は下半分だけ格子が組まれた「惣半籬」。 局見世と最下層の河岸見世に籬はなく、入り口の戸が開いていれば営業中だった。