【そろそろ予習する?】蔦屋重三郎が暮らした吉原は遊女の苦界(くがい)
火を放って逃げ出したいほどの生き地獄
吉原は1768(明和5)年から1866(慶応2)年までのおよそ100年間に、記録に残るだけでも18回、廓が全焼している。 そのうち少なくとも10回は遊女の放火。劣悪な環境に耐えきれず火付けに及ぶケースは、後を絶たなかった。放火は火あぶりの極刑に処される重大犯罪だったにもかかわらず、遊女が死罪となった記録は残されていない。10人全員が三宅島・八丈島などへの遠島(島流し)だった。あまりに不幸な境遇に、町奉行が情状酌量を示したからと考えられる。 『吉原類焼年譜』に全焼の記録がある。この火事は遊女の放火ではないが、目黒で出火し浅草・千住にまで及んだ類焼範囲の広い惨事で、「江戸三大大火」のひとつに数えられる明和の大火である。吉原で生まれ育った蔦重も被災したはずである。
『吉原類焼年譜』が示す「仮宅」とは他の場所での仮営業のこと。このときは今戸・橋場・山谷・山之宿(台東区)、両国(墨田区)・深川永代寺門前佃町(江東区)とある。 今戸と山谷などは吉原にほど近いので格好の場所だったろうが、両国は約4キロ、深川は約9キロ離れている。両国と深川には岡場所、つまり非公認の売春地区があり、吉原の遊女たちを受け入れやすい土地柄だったからだ。実際、大火のたびに岡場所があった地を仮宅としている。明和の頃は岡場所の全盛期だった。 仮宅での数カ月の営業を経て、蔦重は全焼した吉原の復興に取り組んでいくのである。
遊女の世界は完全な階級社会
遊女たちは、ほぼ例外なく貧しい家庭に生まれ、10歳になるかならないかで売られてきた。人身売買は禁じられていたので、表向きは親が給金を前倒しで受け取って、「奉公」に出す体裁をとっていた。証文もかわしていたので、逃げ出すこともできなかった。
女衒(ぜげん)と呼ばれる仲介業者が貧しい農村を巡って少女を買い集めた。金額は諸説あるが、『世事見聞録』(1816年)には北陸や東北の寒村で、ひとり当たり3~5両だったという記録が残っている。1両10万円として30~50万円。女衒は手数料を上乗せして遊廓に“転売”する。 少女たちは「禿=かむろ」という見習いから始め、段階を経て出世した。出世に伴い、格と揚代(料金)も上がった。