【そろそろ予習する?】蔦屋重三郎が暮らした吉原は遊女の苦界(くがい)
番外
完全な階級社会で、トップの「呼び出し昼三」まで上り詰めることができるのはごく一部。町奉行所に残る報告書によると1846(弘化3)年の頃の遊女の数は4834人。それだけの人数が東京ドーム2つ分のエリアに押し込められて男を相手にしていたというのは想像を絶する。
遊女をむしばむ梅毒、荒っぽい堕胎術
遊女の生活は悲惨だった。27歳で年季明けというルールはあったが、それまで生き残った者がどれだけいたか──正確なデータはないが、劣悪な環境のため労咳(結核)などの病魔に侵され、死亡率は高かったと推測される。 厄介だったのは性病、特に梅毒だ。コンドームなど存在しない時代、吉原研究で知られる作家の永井義男は、感染率はほぼ100%だったとみている。 梅毒にかかると髪が抜ける。これを「鳥屋(とや)につく」といった。鳥の毛が生え変わる(換羽)ことにたとえたものだが、遊女が生まれ変わったように元気を取り戻すことはめったにない。病を押して客を取り、病気が進行して死にゆくものが多かった。 遊女が死ぬと、粗末なむしろにくるまれて、浄閑寺(じょうかんじ / 現・荒川区南千住)の墓地に堀った穴に埋められた。同寺が、「投げ込み寺」と呼ばれたゆえんである。 遊女は妊娠も恐れた。確実な避妊手段もなく、妊娠すれば客が取れなくなるので、堕胎は日常茶飯だった。江戸では「中条(ちゅうじょう)流」という堕胎医が繁盛しており、吉原でも“御用医師”だったと考えられる。 中絶方法は極めて荒っぽい。山ごぼうの根を体内に挿入する、水銀入りの膣薬を投与するなどだったといわれ、いずれにしても危険きわまりない。堕胎に成功しても、体調を崩し死ぬ例は多かったようだ。 売れっ子の花魁が妊娠した場合は休業させ、女児が生まれたら禿、男児なら吉原の下働きとして生きる宿命を負っていた。 人権などない世界──遊女の境遇や置かれた環境は、「苦界(くがい)」と呼ばれた。蔦重はそうした女性たちを間近に見て育った。多感だった少年が、そこから何を得たか、のちに彼が作る本に現出する。