いま明かされる、阪神・藤川球児新監督の「火の玉ストレート」を生んだ2つの「意外な要因」
「右腕一本で生きていく」覚悟
僕にとって、その後も阪神は特別な存在であり続けた。だが、阪神一筋に生きるべきだとは思わなかった。不要になれば、遠慮なくクビにしてくれればいい。そのとき、僕はこの右腕一本で生きていく。 逆に、僕が別の世界へ飛び出したくなったら、「阪神の名を上げてこい」と送り出してほしい。 プロ野球の世界とは、そういうものではないかと思った。 そういう機会を与えてもらったという意味で、知られざる真相を打ち明けてくれた岡田監督には感謝している。 岡田監督が話してくれたのは、僕の成長を認めてくれたからだと思う。そうした経緯を糧にできる選手ではないと考えていたら、あえて本人には明かさないだろう。 そのころの僕は、2005年、2006年と2年連続で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得していた。これは、先発を経験してから中継ぎになったことで、試合全体を見渡せるコツのような感覚を身につけたことが大きい。 また、1年を通して中継ぎとして結果を出してきたことでの自信、いつ自分の出番が来るのかわからない登板に向けての試合への入り方もつかんでいた。 やがて、僕がはっきりとしたかたちで認識するようになったのは、自分がこの右腕一本で生きている、という事実であった。 藤川球児というプロ野球選手に存在価値があるとすれば、それはこの右腕でしかない。 僕が投げる1球1球が、すなわち藤川球児なのだ。 僕の仕事とは、ただただ価値のあるボールを投げることに尽きると思った。 どんなユニフォームを着ようが、どの球場のマウンドに立とうが、それらはあまり大きな問題ではない。大切なのは、ファンのみなさんが僕のボールに満足してくれるかどうかだ。 だから、僕はいつつぶれてもいいという気持ちで、全力で投げた。 投げられなくなれば、潔くユニフォームを脱ぐ。僕がいつでも引退する覚悟でプレーするようになったのは、ちょうどこのあたりの時期からである。