「机上の空論」だった老舗のアトツギ息子が、現場でパートさんに怒られまくって学んだこと
1895(明治28)年、東京・本所に牛鍋屋として創業した「今半」。その日本橋支店が1956(昭和31)年に独立した「人形町今半本店」は、すき焼きや鉄板焼きなどの飲食店を全国に6ブランド19店舗を構え、黒毛和牛のすき焼き・鉄板焼きなどの提供をはじめ、弁当、惣菜、ケータリングなどを幅広く手がけ、日本の牛肉文化を牽引してきた存在といえる。現社長・髙岡哲郎氏に、父そして兄から老舗「人形町今半」の経営を引き継ぐまで、留学やホテル事業、レストランでパート社員に怒られながら成長してきた軌跡を振り返ってもらった。 【動画】なぜ事業承継が大切なのか専門家に聞いた。
◆兄は「後継ぎ」、お前は「自由」にちょっとさみしさも
――老舗企業に生まれ、小さい頃から「将来は家業を継ぐ」という考えはあったのでしょうか? 3つ上の兄(前社長・髙岡慎一郎氏)がおり、当然長男の兄が継ぐものと思っていました。 父もそのつもりで、家族で墓参りに行くとご先祖様のお墓に「若旦那の慎一郎を連れてまいりました」と挨拶するほどでした。 だから、兄自身も後継ぎの意識はありましたが、だいぶ抵抗があったようです。 一方、私は「何でも自由にやって可能性を広げなさい」と言われて育ちました。 兄と違って外で好きなことができるという嬉しさの一方で、逆に「私は今半にいてはいけないんだ」という、ちょっと寂しい思いもありました。 今半という会社が大好きでしたから。 ――ほかに将来の夢や就きたい職業はありましたか? 他人が困っているのを放っておけないタイプだったので、困っている人を助けられる職業に就きたいと思っていました。たとえばお医者様、学校の先生、福祉の仕事などを考えていました。
◆「とりあえず」で入社した大好きな家業
――学生時代と就職活動はどのような感じでしたか? 学生時代は、ほとんど福祉活動のボランティアばかりしていました。 就職活動は、会員制リゾートがおもしろそうだなと思い会社説明会に行きましたが、あまり心がときめかず迷っていたところに「うちに来てもいい」と父から言われ、入社することにしたんです。 私は今半が大好きでした。 でも、「とりあえず一番好きな会社にまず入って、やりたいことが見つかったらそのときは外に出ればいいか」という程度の軽い気持ちでしたね。 今半でいろいろと仕事を覚えて、料理を極めるのもいいかなとも思っていました。 ――そのとき、お兄様はもう今半にいらっしゃったのですか? いえ、兄は社会人になったとき、「少しでも外の世界を知りたい」とコンピューター関連の企業に就職したんです。 そこで27歳まで勤めた後、今半に入社しますが、私の入社時は、まだ外で働いていました。 私の方が先に入社し、兄が来たときにいい雰囲気になっていたらいいかな、と考えていました。