「机上の空論」だった老舗のアトツギ息子が、現場でパートさんに怒られまくって学んだこと
◆レストランの現場で大苦戦 自分は「机上の空論」だった
――帰国後に、人形町今半新宿ルミネ店の店長として再始動しますね。 帰国後、「新宿に新しく店を出すから店長をやれ」と言われ、軽い気持ちで引き受けたんです。 ところが、私は机上の空論ばかりで、レストランビジネスがどれだけ大変なものか全然わかっていなかった。 実際には「勘と度胸とど根性」が不可欠で、本当に大苦戦しましたね。 ミスばかりして、パートの準社員さんたちに叱られながらやっていました。 ――その後、人形町本店の店長に就任されましたが、そこでのお仕事はいかがでしたか? これまたルミネ店とは全然違いました。 またイチから出直しです。 時代からいえば令和平成から急に昭和に移ったような古い感覚で驚きました。 店長になっても、お客様もうちの従業員もベテランの方々ばかりで、店長として見てくれる雰囲気はありませんでしたね。
◆代替わり直後に訪れたBSE、そして清算の危機
――2001年に、お父様が取締役社長を引退されましたね。 兄が社長、私が副社長となりました。 父も74歳になり、我々も成熟してきていろいろ成果も出していたので、「もうお前らの時代だ」と。 さまざまな決断は我々のほうが早かったので、それを見ていての決心だったようです。 ――承継から4ヶ月後、牛肉を扱う会社にとって致命的なBSE(狂牛病)という大きな試練に見舞われたそうですが、この難局をどうやって乗り切ったのでしょうか? 父はとにかく幅広く事業をやりたい人でしたが、一つひとつは収益力の低いものばかりでした。 借入金が膨らんで、BSEが始まる1年前にはすでに債務超過になっていました。 そのときはうちの母が亡くなり、生命保険金が下りたことで乗り切れたのです。 しかし、2001年10月にBSEが発生したときは、さすがにもうダメだということで、父が私たちを呼んで、会社を清算すると宣告しました。 清算手続きのために我々3人で企業弁護士さんのところに行ったのですが、驚いたことに、財務表を見た弁護士さんが「お宅の会社は潰れないですよ」と言う。 「債権が極めて少ないし、手形も一度も発行してない、潰れるスキームがひとつもない。支払いを少し遅らせてもらうだけで、すべて片がつきます」と言うんです。 そこで、取引業者にお願いして支払い期間を大幅に変更し、よその企業よりもちょっと遅いくらいに設定したら、急に楽になりました。 もともと財務面では悪くない経営だったのですが、自分たちでは分かっていなかったということです。 我々の代は、財務面をもう一度見直してより良い経営を目指していくことが必要と感じています。
■プロフィール
株式会社人形町今半 代表取締役社長 髙岡 哲郎 氏 1961年3月東京都生まれ。1985年4月、株式会社人形町今半に入社。仕入れ、和食調理、精肉調理、販売を経て株式会社東観荘に出向、専務取締役支配人となる。1990年に米国コーネル大学PDPスクールに留学し、英国のホテルダイニングのオペレーションアドバイザーを務める。1991年10月帰国、人形町今半新宿ルミネ店取締役店長就任。1996年、人形町今半本店店長就任。2001年6月取締役副社長兼飲食部総支配人就任。2018年6月、代表取締役副社長兼営業本部長兼経営企画室長就任。2023年代表取締役社長に就任し、現在に至る。
文/黒羽真知子