パラオ共和国:南太平洋の楽園から戦後80年の平和への誓い
西太平洋に今も残る日本の香り
戦前、日本企業は乾燥ココナツや鉱山のリン鉱石、魚などをパラオで産出していた。最大の都市コロール市はかつて 「リトル東京 」と呼ばれ、1万7000人の沖縄県出身者を含む3万人の日本人が住んでいた。 パラオ国立博物館には、セピア色の日本統治領時代の写真が展示されている。そこには、広いメインストリートに木々が立ち並び、その両側には日本的なデザインの木造建築が立ち並ぶ様子が写されている。レストランや衣料品店、さらに立派なデパートと並んで自転車店なども点在していた。当時の日本政府の本部ビル(旧南洋庁パラオ支庁)は大通りの南端にあった。現在も残る建物は補修中だが、裁判所になっている。
1981年に自治政府が発足したパラオ。ハルオ・レメリク初代大統領、1992年から8年間大統領を務めたクニヲ・ナカムラ大統領は日系人だ。島のあちこちにある店や会社には、今でも日本人の姓が数多く見られる。 コロール市にあるパラオ政府観光局で働く28歳のクロエ・ヤノさんの祖父母は日本人。「両文化には多くの類似点がある」と言う。「私の小さなころから、(日本は)パラオの社会に大きな影響をもたらしてきました。人種や民族に関係なく他人を尊重したり、もてなしたり、環境を大切にしたりする点などです。パラオの人々は日本の人々のように謙虚で、勤勉で、家族の絆が強いのです。日本語由来の言葉を耳にしない日はありません。今でもbeerを 『ビール』と言います」 ヤノさんは、パラオが日本人旅行者の人気スポットとなった理由の多くは、良好な2国間関係や世界有数のダイビングスポットがあるからだと言う。 コロール市では、ダイビングツアーや遠洋漁業、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録されているロックアイランドやペリリュー島へのツアーなどを行っている。 「新型コロナの感染拡大前は、日本人は常に外国人旅行者のトップ3に入っていましたが、残念ながら、今は私たちが期待していたようには旅行者の数は回復していません」と彼女は言う。ドルに対する円安と直行便不足が大きな障壁になっていると言う。 コロナ前、観光ガイドのスウィング・アグオンさんの顧客は、60%が日本人観光客だった。「日本の支配下で困難な時代を過ごしたパラオ人もいるだろうが、その世代で今生きている人はもうほとんどいません。過去の事は覚えておくべきですが、こだわってはいけない。前に進まなければならないのです。今来ている日本人は観光客で、お金を使うことでパラオの経済を助けてくれている。ですから大歓迎です」とアグオンさんは言う。