「もう君らを信頼できない」…自ら授業放棄した中学教師が、それでも保護者から「大応援」される深いワケ
保護者に「物申す」のは、生徒のためでもある
保護者とは「共汗関係」を築く……常々そう言っている私ではあるが、だからといって保護者に阿る(おもねる)ことはしない。 子どもは、大人の狡さ(ずるさ)に敏感だ。彼らは、相手によって態度を変える大人を信用しない。教師が発言を左右すると、生徒たちは必ずそのことに気づく。そんな教師が生徒指導に入っても、子どもたちは、 〈お前がいつも見て見ぬふりをしていること、オレ(私)は知ってるぞ〉 と思っているから、おとなしく話を聞いているように見えても、結局なにも伝わっていない、ということが起こる。なかには教師の悪いところを真似して、接する大人によって態度を変えるようになる子も出てくる。 だが、明らかに保護者の側に改めるべき行いがあるとき、教師がしっかり直言できれば、子どもたちはこう納得する。 〈先生はウソをつかないんだ〉 だから私は、「保護者だから」「先輩だから」「卒業生だから」と忖度して発言を変えたりはしない。親にも子にも同じことを語ることにしている。 私のセミナーに参加した教員から、「保護者対応で強く出られません。どうしたらいいですか」という質問を受けることがある。 弱気になりすぎるのはもちろん論外だ。しかし、なぜ「強く」出なければならないのか。自ら省みて正しいと揺るぎなく確信できたなら、言うべきことをスマートに言えばいい。それもまた保護者対応の要点のひとつだ。 実際、校内で目に余る行動がみられるときは、他の保護者も〈だれか注意してほしい〉と思っているものだ。授業参観で保護者をたしなめた日、参観後の三者面談で、一部始終を見ていた転入生の保護者は私にこう言った。 「先生、先生の授業見てよかった。感動した! 一番はね、先生、廊下のうるさいやつら一喝したでしょ。あれスカッとしたわ~! 私も行こうと思ってたのよ」
「もう君らを信頼できない。授業はしない」
もちろん、はっきり伝えることで保護者とぶつかることもある。だが、対立は対話を始めるチャンスにもなる。 教師になって3年目、はじめて1年生の担任になったときのことだ。私の学級で「いじめ」が起こった。 発覚したきっかけは、こんなことだった。 秋口、合唱コンクールの練習が始まったころのことだ。ある男子生徒(Aとしよう)が他の男子2名にからかわれ、泣いているところに偶然、私が通りかかったのである。 Aのまわりには他の生徒もいたが、だれも止めようとしていなかった。居心地悪そうな様子は見せつつ、生徒たちはみんな傍観者を決め込んでいた。 あとで子どもたちから詳しい話を聞いたが、その内容に私は愕然とした。 たまたま私が発見した時点で、実に5ヵ月もAが差別され、からかわれていたことが分かったからだ。不覚にも私は5ヵ月間、気づけなかったのである。ほとんど犯罪とすら言えるミスだ。教師失格だと悔やんだ。 当時の勤務校には、5つの小学校から生徒が入ってきていた。調べてみると、その5校の小学校のうちの1校で起きていた「いじめ」が、進学してからもずっと続いているのだという。思っていた以上に深刻だ。何よりもまず、この問題に関する指導を徹底しなければ、授業などしても意味がない……だから私は生徒たちを前に、 「もう君らを信頼できない。この問題が解決するまで、授業はしない」 と宣言して、本当に授業をやめた。保護者にも学級通信で、 「この問題を子どもたちがどう克服するのか、自分たちの行いを反省し、基本方針を出して具体的な行動を始めるまで、私は授業をしません」 と報告し、本当に授業をやめてしまった。結局、授業をやめていたのは4日間だったが、ボイコットを初めて2日目くらいから、保護者からさまざまな反応が返ってきた。 「小学校時代から続いていたいじめです。先生、がんばってください」 そう応援してくれる手紙が多かったなかで、そうでない意見を書いてくる保護者もいた。 「授業をしないのはおかしい」 「厳しすぎる。子どもが疲れています」 いまでもよく覚えているが、そういった手紙を書いたのは、「いじめ」が起きた小学校の保護者だった。私は手紙が届いたその日のうちにこう返信した。 「いじめられている男子生徒は、あなたもご存じのA君です。あなたの子が通っていた小学校の子です。自分の息子がA君と同じ立場だったら、あなたは同じことを私に言うでしょうか」 その保護者の子どもが、小学校で「いじめ」に加担していたかどうかはわからない。しかし傍観していただけだったとしても、「当事者」であることに変わりはない。そう思えばこその反論だった。