我欲と放蕩の果てにたどり着いた異国ーー直木賞の栄光からタイで出家、コロナ禍の日本を見つめる男
それにタイではコロナ禍に対して、どこか「しょうがない」「なるようにしかならない」という空気もあるという。「諦観」が漂っているのだ。それもまた仏教の考えのひとつだが、決してネガティブなものではない。事実を事実として受け止め、抗うのではなく受け入れて、受け流す、しなやかな心持ちのことだ。 「仏の教え」の結果か、タイはのべ感染者2万4571人、死者80人と、どうにか感染爆発を食い止めている(日本は感染者41万4472人、死者6912人。いずれも2021年2月16日現在。世界保健機構による)。
自分にとってなにが大切なのか。いまが考えるチャンスでもある
「経済を回すのか、収束を目指すのか。日本はそのどちらかに揺れて、苦しんでいるように見える。でもタイに、そういう選択肢はない。なによりも人の命と健康を優先させています。その根底にあるのが、土地の豊かさと仏教なのかもしれない」 経済を止めることで失業する人は増える。チェンマイのような観光地はなおさらだ。でも、「田舎に帰ればカオニャオとナンプラーくらいはあるから」とタイ人は言う。 「現金収入は減っても、田畑や自然の実りがあれば、どうにか食うことはできる。豊かな土地だからね。頼れる地縁や血縁もある。経済への打撃は深刻だけど、まずはコロナ収束のために、厳しい行動制限にも従おうとする」
それは仏の教えという確たる芯が、タイにはあるからだ。 「そうした人が生きていく上で本当に大切なこと、哲学みたいなものを、日本人は戦後の物質的な発展の中で、どこかに忘れてきてしまったのかもしれない。僕は、教えのかけらもなく、本能のままに生きてきて人生につまずいたけれど、日本の姿と重なる気もするんですよ。僕のほうが先に落ちぶれたわけだけど(笑)」 日本がずっと抱えてきた歪みのようなものをコロナは明らかにしたのかもしれない。それでもいいチャンスではないか、と笹倉さんは言う。 「社会が半ば止まっているいま、なにが自分にとって本当に寄り添えるものなのか、信頼できるものなのか。それを探せる時間を、コロナは与えてくれているようにも思う。僕の場合はテーラワーダ仏教だったけれど」 仏教や、なにかの教えでなくてもいい。ひとりひとりが改めて、心の芯となるものを見つけるためのきっかけだと、前向きに考えてみてはどうか。笹倉さんはそう考えている。 「こんなこと言っても、それどころじゃない、ピンとこないよって言われちゃうかもしれないけどさ。でも、いまこの機会に、どこまで切実に考えるか。心構えをひとつ、自分の中でつくってみてはどうか。それが本当に大事だと思うんですよ」 我欲の果てに拠り所を見失い、異国に流れ着いたタイ僧は力を込める。