我欲と放蕩の果てにたどり着いた異国ーー直木賞の栄光からタイで出家、コロナ禍の日本を見つめる男
第101回直木賞受賞作家、笹倉明さん(72)は、文壇を遠く離れて、いまタイにいる。北部チェンマイの寺で出家し、タイ僧として暮らす日々。俗世を離れて5年になるが、その間に筆者はたびたび笹倉さんを訪ね、近況を伺ってきた。今回はコロナ禍をめぐるタイと日本の取り組みの違い、その背景にある宗教観についてリモート・インタビューした。(ジャーナリスト・室橋裕和/Yahoo!ニュース 特集編集部)
コロナ不況にあえぐ観光都市チェンマイ
「托鉢でいただく食べ物が、めっきり減ったよね」 コロナ禍によって寺の生活になにか変化はありますか? まずそう尋ねると、笹倉さんは言った。 「チェンマイは観光で成り立っている町でしょう。でもホテルもレストランも、ほとんど旅行者はいない。寺の前で行われていたサンデーマーケットも、一時期は再開したんだけどね。年末からの感染拡大でまた中止になった」
歴史ある寺院群も閑散とし、周辺の大自然を巡るトレッキング客もいない。町を支える観光業は壊滅ともいえる状況だ。人々の生活はなかなかに厳しく、毎朝の托鉢にお布施として回せる食料がだいぶ減っているようだ、という。 「でもね、お布施は減ったけれど、お布施をしようって毎朝出てくる人の数は変わらない。それがタイなんだなあ」 とはいえ、お布施の減少は寺の「食卓」にも影響する。僧たちの食事は托鉢でもらったものだけでやりくりするのがタイ仏教の習わしだからだ。笹倉さんもその戒律の中で暮らし、早朝6時ごろからチェンマイの町を托鉢に回っているが、そこには世の不況がそのまま反映されてくる。 それでも僧たちは食事を切り詰め、布施の一部の食料や日用品を、寺の前に置くのだ。それをコロナ禍で生活が苦しい人たちが、手に取っていく。仏教を芯にした助け合いのサイクルが、タイにはある。
直木賞の栄光から、バンコクの裏町へ
笹倉さんが文壇の頂点を極めたのは、1989年だった。小説『遠い国からの殺人者』で、第101回直木賞を受賞する。 しかし、そこからは転げ落ちていく一方だった。次々に持ちかけられるあやしげな儲け話に目がくらんでは騙され、著作の映画化に投資をして大失敗し、また肝心の小説は直木賞受賞以降、どうにも売れない。編集者たちも離れていく。だんだんと日々の生活にも困るようになった。 それだけではない。妻子のほかに、別の女性との間にも子供をつくり、ふたつの家庭の間で板挟みとなっていた。そこから逃れようと、また違う女性のもとに走った。やがてどこにも居場所がなくなったのだ。 その果ての、タイ移住だった。2005年のことだ。タイは『東京難民事件』など数々の作品の取材で何度も訪れ、親しみを持っていた国ということもあるが、目的は物価の安さだった。放蕩の暮らしだったために、年金すらもないのだ。 「経済的にもう、行き詰まった。タイなら贅沢をしなければ、月3万円でやっていけるからね、そう思って、日本を出たんだ」 仏教でいうところの「不実」と「我欲」の末に、とうとう食い詰め、いわば逃亡したのだった。 そのころ、やはりタイに暮らしていた筆者は笹倉さんと出会い、ときどき飲むようになった。向かうのはたいてい、笹倉さんが借りていた安アパートに近い路上の屋台だ。そこに市場で買った格安の総菜と、ひと瓶100バーツ(約350円)足らずのラオカオ(タイの焼酎)を持ち込んだ。屋台に注文するのは氷とわずかなつまみだけで、ふたりして長居したものだ。よほど懐具合が苦しいと思ったのか、そんな僕たちにも屋台のおかみさんは優しく、つまみをおまけしてくれたりするのが、いかにもタイだった。 その下町で、笹倉さんが毎朝見ていた光景がある。托鉢だった。早朝6時ごろ、オレンジ色の袈裟をまとった僧たちがやってくると、民家や商店から人々が出てくる。僧の持つ鉢に、お布施としてカオニャオ(もち米)や総菜、水や豆乳、バナナなどを次々に入れていく。ひざまずき、深くワイ(合掌)をする彼らに、僧は経文を読んで、祝福を授ける。 「豊かな界隈じゃないんだよ。それでも毎朝、必ず布施をする人たちがいる」 タイ人が当たり前のように行っている日々の習慣が、まぶしく映った。 「あれこそが、自分に欠けていたものだと思った。生活に根づいた教え、暮らしの柱を、まるで持っていなかった。そんなことを改めて気づかされたんだなあ」 次第に笹倉さんは、タイ仏教に惹かれていく。