「ムンクの気持ちまでをも考える必要がある」──AIを用いた美術品の保存修復の最前線
美術品保存・修復で考慮すべき倫理的側面
PERCIEVEへの資金投入は2026年に終わる。サンドゥによると、InARTですでに公開されたものだけでなく、今後発表される全てのプロトタイプが、プロジェクト終了までに広く利用可能なプログラムへと進化していくことを参加者は望んでいるという。そこには、色についての一般的な知識を共有するデータベースから、光によるダメージを推定するツール、ウェブベースの色予測サービスまでさまざまなプログラムが含まれている。 サンドゥなどPERCEIVEの参加サイエンティストたちは、現時点では研究対象の美術品に物理的な変更を加えるつもりはない。というのは、このプロジェクトが「真正性とケアの意識」というコンセプトを重視しているからだ。それは、美術品保存科学の著名な研究者で、2023年に出版された『Innovative Technology in Art Conservation(美術品保存における革新的技術)』の著者であるウィリアム・ウェイが考えていることと一致する。ウェイの主張は、「修復や保存をする場合、対象物にどのような措置を講じるか」という問題は、保存に関する重要な倫理的側面を示しているということだ。 ウェイはPERCEIVEには関わっていないが、美術品の保存について「有名なジャーナリストが最後の取材で着用したセーターのようなもの」として作品を扱うべきだと説明している。 「セーターには穴があり、汗で汚れているとします。その穴を繕うと新しい素材を付加することになりますが、それは許されるでしょうか? また、汚れを落とせばDNA情報が失われますが、洗ってもいいものでしょうか?……私たちには何が許されるのでしょう?……これは医療倫理の問題に近いものです。患者に対してどこまでの行為が許されるのかという問題です」 歴史的遺物や美術品をデジタルで複製したり操作したりすることについても、同様の哲学的な問題が数多く生じる。その点、《叫び》の事例は、厳格な科学の枠を超えてウェイの疑問に対する答えを示そうとするPERCEIVEの真摯な姿勢を示しているとサンドゥは言う。 「データを解釈する際には、常に文脈を考慮することが重要です。たとえば、《叫び》に関して第一に考慮するべき文脈はムンクが書き残した文章で、ムンクが自然から、夕焼けの色から、どんなインスピレーションを得たかということです」 さらに、精神的な問題に苦しんだ1人の人間であるムンクが、「疲れ果てて、気分が悪い」と書いたムンクが、立ち止まって夕日をじっと眺めたときに感じた気持ちを保存修復師は考える必要があるとサンドゥは指摘する。 「ムンクは、このとき抱えていた混乱の全てを描くことができたのではないかと私は思います。《叫び》は人類の普遍的な遺産の一部であり、メッセージです。私たちが受け取ったメッセージを未来にも、私たちの世代を超えた後世にも伝えるべきなのです。AI技術やプロトタイピングの手法を用いることで、そうした義務を果たせるでしょう」(翻訳:清水玲奈)
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