「ムンクの気持ちまでをも考える必要がある」──AIを用いた美術品の保存修復の最前線
AIツール開発で美術品保存の進化を
今から約130年前のある日、ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクは夕方の散歩に出かけた。それは、美術の潮流を劇的に変え、永続的な影響をもたらすことになる運命的なものになった。そのときのことをムンクはこう書き残している。 「日が沈み、雲が血のように赤く染まっていった。私はこの光景を描き、雲を本物の血のように描いた。色が叫んでいた」 こうして、名作《叫び》(1893)が誕生した。 しかし、時の流れと保管環境のために、その叫び声の鋭さは次第に削がれていく。《叫び》には油彩やパステル画など複数のバージョンがあるが、100年以上にわたってさまざまな条件の光や湿度にさらされた結果、全ての作品で退色や劣化が進んだ。しかも、1910年に描かれたものは2004年に盗難に遭う。2006年に発見されたものの、左下に湿気による新たな損傷が生じ、劣化が加速してしまった。 そうした状況では、ムンクが目にしたであろう血のような赤や深い青などの鮮烈な色彩を、現代の鑑賞者が体験することなど夢のまた夢のように思われる。いずれにしても、芸術作品は例外なく古びていくもので、その運命を免れることはできない。しかし、欧州連合(EU)が支援するPERCEIVEプロジェクトに参加した12の美術館・博物館には、これまでになく現実味を帯びた解決策がある。それは、急速に進化するAIツールによる作品本来の色彩の再現だ。 2023年2月に3カ年計画で始まったPERCEIVEは、専門家だけでなく一般の人々も利用できる「サービスベースのAIアーキテクチャとツールキット」の開発を目的とした国際共同プロジェクトだ。オスロのムンク美術館のほか、シカゴ美術館、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館、ナポリの国立考古学博物館などが所蔵作品のデータを提供。そこにフラウンホーファーIGDやIMKIといったテクノロジー企業が人的資源を投入し、データを基盤としたAIインフラのトレーニングと構築に取り組んでいる。 さらにこのツール開発では、5つの主要な美術品カテゴリー(彫刻、絵画と紙作品、織物、写真、拡張現実アート)ごとに、保存修復師やキュレーターなどが作品の元々の色について研究し、デジタルで復元するための技術向上が目指されている。 ムンク美術館では、《叫び》シリーズのうち厚紙に描かれた油彩画とリトグラフの2点について、色材化学に焦点を当てたトレーニングを行っている。そのほか、シカゴ美術館所蔵のポール・セザンヌによる淡い色合いの水彩画《プロヴァンスの道》(1885年頃)や、ナポリ国立考古学博物館が所蔵する西暦79年のベスビオ火山噴火で大きく損傷したフレスコ画など、各美術館の保存修復師たちが作品データの収集にあたっている。 今年6月にオスロで開催された第6回のInART国際会議では、PERCEIVEプロジェクトの参加者数名がツールのプロトタイプを展示し、過去1年半の研究成果を関係者が評価する機会が設けられた。 PERCEIVEに参加しているあるグループは、ルツェルン大学アーサー・クレイ教授の指揮のもと、オートクロームデモンストレーターと名付けられた装置を展示。この装置を使えば、オートクロームプレートをデジタルで復元し、復元したものとオリジナルの拡大画像を並べて比較できる。また、AR(拡張現実)アート作品を展示・保存するバーチャル環境「VR彩度デモンストレーター」を来場者が体験できるコーナーもあった。 ムンク美術館からは、専属保存担当サイエンティストであるイリーナ・クリナ・アンカ・サンドゥのチームが、《叫び》の時系列的な変化の過程をデジタルで体験できる「《叫び》のタイムマシン」を展示した。インタラクティブ性のあるこのプログラムでは、1893年当時の《叫び》だけではなく、2093年の、あるいはそれ以降の《叫び》がどんな状態になるかを見ることができる。サンドゥはこれを「私たちはタイムトラベルをするのです」と表現した。