江戸城よりも大きかった駿府城天守台の謎、家康の家臣に忖度はあったのか?
徳川家康が晩年を過ごした静岡市の駿府城で発掘調査が進んでいる。その天守台の底辺の大きさは北辺が61メートル、西辺が68メートルあり、国内最大とされてきた江戸城の天守台をも上回るという。なぜ、そんなに大きな天守台がつくられたのだろうか?
大改修の年に家康が移り住む
徳川家康は晩年を駿府城で過ごし、大御所政治を行った。静岡市によると、駿府城は1585(天正13)年に家康が築城し、その後、1607(慶長12)年2月から2回目の築城とも言える大改修が行われた。家康は同年7月より駿府城に移り住み、1616(元和2)年に75歳で亡くなるまで駿府城で過ごしたという。 現存している駿府城に関する資料はすべて1607年の大改修後に関するもので、大改修前のことはほとんどわかっていない。家康亡き後、1632(寛永9)年から城主不在となり、明治時代に入ると陸軍に払い下げられ、1896(明治29)年には陸軍歩兵連隊の用地となって天守台や本丸堀もすべて埋め立てられてしまった。 静岡市は駿府城跡地の公園整備に向けて2016年8月から天守台などの発掘調査を行っている。地中に埋もれている石垣は、1607年の大改修後の駿府城の天守台石垣で、これまでに北側と西側が出現、天守台の大きさは北辺が約61メートル、西辺が約68メートルあることがわかった。 静岡市歴史文化課によると、江戸城の天守台は南北45メートル、東西41メートルで、駿府城の天守台は江戸城よりも大きく国内最大になるという。しかし、駿府城の天守は国内最大だったのかというと、そういうことではないらしい。
江戸城より大きな天守をつくろうとした?
江戸城は、天守台の上に目一杯、天守が建っていたが、駿府城は淀城のように天守が天守台の一部に建てられていて、そうした城の構造を天守丸構造というのだそうだ。 天守丸構造の駿府城の天守は江戸城の天守よりも小さかったということだが、城郭考古学が専門の加藤理文氏は、「当初は江戸城よりも大きな天守をつくるつもりだったのではないか」と指摘する。加藤氏によると、駿府城の天守台は天守丸構造の天守台としてつくられたとは考えにくく、また、天守に金属の瓦を初めて使用したとみられ、瓦に軽い金属を使用したのも大きな天守をつくるためだったからではないかというのだ。 「家康への“忖度”から家臣たちが江戸城よりも大きな天守をつくろうとしたが、将軍のいる江戸城よりも大きな天守をつくることを家康がとどめ、そうならなかったのではないか」と加藤氏。また、駿府城の天守は建設中に火災によって一度焼失しており、資材が焼けてしまい、その影響で大きな天守を建てられなかった可能性もあるという。 駿府城は家康没後の1635(寛永12)年、城外の火事が引火して天守や櫓などが焼けてしまい、以降、天守が再建されることはなかった。駿府城の天守についての記録は限られており、おおよその姿はわかるものの詳しいことは不明で、駿府城の外観を描いたいくつかの絵図の天守も形が異なるなど実際の姿を特定することが難しい状況だという。 静岡市歴史文化課では駿府城への理解を深めてもらおうと発掘した石垣や石などを一般公開しており、7月21日には発掘調査現場で石垣普請工事を体験するイベントの開催も予定している。イベントの詳細は静岡市歴史文化課(電話054-221-1085)まで。