森永卓郎の博物館「B宝館」。約12万点の展示には<世界一>のジャンルも…「普段の暮らしの中で使っているものの中にこそ美しさがある」
経済アナリストとして、テレビ・ラジオなど多くのメディアで活躍する森永卓郎さん。2023年末にがんであることを公表してからも、病気と闘いながら活動を続けています。森永さんは、がん宣告をきっかけに「自分の後始末は自分で」と、身の回りのモノの整理を始めたそう。今回は、森永さんの新著『身辺整理 ─ 死ぬまでにやること』から一部引用、再編集してお届けします。 【写真】「B宝館」に展示されている、グリコのおもちゃコレクション * * * * * * * ◆トミカコレクション 毎日新聞社で記者をしていた父の仕事の関係で、小学5年生をジュネーブで過ごし、小学6年生で日本に戻ってきたとき、私のミニカーコレクションは1000台を超えていた。 ジュネーブから帰国直後の1970年にトミカが発売され、13歳の私は最初に登場した赤色のトヨタ2000GTを購入したのだが、そこからの6年間はミニカーコレクションから離れていた。 中学、高校時代はカメラやギターなどの趣味に関心が向いていたからだ。 さらに大学の受験勉強が重なり、コレクションに費やす時間が取れなかったという事情もある。 大学に入った1976年からコレクションを再開し、主にトミカコレクションに注力した。 当時はどこの商店街へ行っても個人経営の玩具店があり、在庫管理がゆるかったので、発売当時のモデルが店頭や店の奥に積まれた在庫の中に残っていた。 そのおかげで私は6年の空白期間があったのにもかかわらず、初期のトミカを定価で手に入れて揃えることができたのだ。
◆初代のクラウンパトカー ただ1台だけ、初代のクラウンパトカーは入手困難だった。 実車のクラウンがモデルチェンジして通称「クジラクラウン」になったのに準じて、トミカのパトカーもクジラクラウンに交代した。 そのため、初代クラウンパトカーは、わずか2年で市場から消えていたのだ。 私は「どうしても欲しい!」と執念を燃やし、血眼になって探し回った結果、やっと見つけ出したが、それは箱のない展示品だった。 コレクターにとっては箱も大事なので、その後も初代クラウンパトカーのパッケージを探していたが、なかなか見つからず、ようやく入手したのはずいぶんとあとになってからだった。 社会人になってからもミニカーコレクションに余念がなかったが、30代に入るとジャンルが広がり、50代に突入した頃には、アニメ少女キャラクターフィギュア、有名人のサイン入り名刺、消費者金融のポケットティッシュ、携帯ストラップ、テレビ局のノベルティ時計、グリコのおもちゃ、空き缶、ボトルキャップ、おもちゃの缶詰、ライター、貯金箱、指人形、マクドナルドの景品、『映画版ドラえもん』の入場者プレゼント、ランチパックやチロルチョコの包み紙、崎陽軒のシウマイ弁当に入っている「ひょうちゃん」醤油入れ、ホテルなどのロゴ入り袋に入った爪楊枝、航空機模型、鉄道模型などを収集するようになっていた。
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