金沢市内に被災した生徒の学習拠点を開いた熊野謙さん=2024年12月、金沢市片町1丁目の能登國学習センター(南日本新聞社)
地震は時計の針を10年進めた…発災直後から受験生支援に奔走、見えてきた過疎地の教育の限界「対症療法では未来ない」
【関連記事】
- 【写真】〈関連〉金沢市内に開いた学習拠点で生徒とともに笑顔を見せる熊野謙さん=2024年12月、金沢市片町1丁目の能登國学習センター
- 避難先でも勉強あきらめない…能登半島地震で塾団体が連携し受験生を支援、無償で通える仕組みをつくる
- 2次避難を拒む認知症の母「家を離れる理由が分からない」。「快適だけど牢のようだ」知人のいない温泉旅館で沈む海女さん。古里か安全か…正解のない能登で記者は言葉を失った
- 「ありえない」…海底の岩場は突如むき出しになった。それから、わずか45秒…大水は家になだれ込んだ。「防災袋を手に取る余裕もない」。南海トラフ地震に備え、私たちは石川から何を学ぶ
- 自分だけ漁に出るわけには…地震当夜、沖出しで難を免れた「竜伸丸」。僚船の大半は座礁、転覆した。係留先の金沢港で再開に備える。「僕にはこれしかないので」
- 家族と離れ集団避難 受験控えた中学3年生、異例の共同生活…学習支援で派遣、鹿児島の先生が感じた子どもたちの「必死な思い」【能登半島地震】