地震は時計の針を10年進めた…発災直後から受験生支援に奔走、見えてきた過疎地の教育の限界「対症療法では未来ない」
昨年の元日に発生した能登半島地震では、鹿児島県出身者も被災した。石川県輪島市と七尾市で学習塾を経営していた熊野謙さん(41)=鹿児島市出身=は避難先の金沢市に、能登の生徒が気兼ねなく学習できる拠点「能登國学習センター」を開設し、受験をサポートしている。 【写真】〈関連〉金沢市内に開いた学習拠点で生徒とともに笑顔を見せる熊野謙さん=2024年12月、金沢市片町1丁目の能登國学習センター
熊野さんは鹿児島大学を卒業後、母の故郷・輪島市で中高生向けの学習塾を開業した。1年目の2007年には震度6強の地震に遭い、被災した経験がある。昨年は県外に家族で旅行中だった。テレビで地震を知り、車で輪島市の自宅へ向かった。当初は「震度6」の報道だったため、「まさか家が壊れているとは思わなかった」と振り返る。 すぐに頭に浮かんだのは、共通テストを控えた生徒たちのことだ。「輪島から金沢へは山間部を通る一本道。寒波が来る前に子どもたちを輪島から出さないと、テストを受けられなくなる」。高校に方針を確認している状況ではないと判断し、希望する生徒を連れて、天候が悪化する前の1月6日に輪島市を出た。提携する大手予備校の支援を受け、金沢市のホテルに分散して滞在。生徒はそれぞれ同市内の提携校に通いながら受験に臨んだ。 避難当初は連日、飲食店に集まって生徒を励ました。2月になると、復興拠点の金沢市内は騒がしくなり、集まる場所を確保しづらくなったため、市中心部に20席の自習室を借り、生徒の居場所を作った。「取りあえずお金が続くまで」と3月にスタート。後にこども家庭庁の財政支援を受けられるようになり、被災した生徒が誰でも無料で使えるスペースになっている。
「最後の半月で被災した去年の受験生より、今年の受験生の方がダメージは大きい」という。生活基盤を失っても受験は待ってくれない。「学習量が足りていないと言いたいが、あの環境にいる子どもに頑張れと言うのは酷だ」と気遣う。 避難先の金沢市と塾のある七尾市を行き来する。輪島市にも毎月帰ってはみるが、見慣れた光景とのギャップに苦しみ、すぐに金沢に戻りたくなるという。 「復興まで時間がかかりすぎ、意欲を失った大人の姿を目の当たりにする子どももいる。成長を見込める時期に、上を目指さなくなるのは損失だ」と能登の子どもたちの現状を憂う。 だが地震は、奥能登の教育を戦略的に変える機会でもあるという。超少子高齢化で既存の高校の存続は限界にきていた。「地震が時計の針を10年進めた。これまでのような対症療法では未来はない。野心的な取り組みで生徒を呼び込み、将来の関係人口を増やしてほしい」と期待する。自習室に名付けた「能登國」は「自分たちのアイデンティティーだと言いたい」と語った。
南日本新聞 | 鹿児島
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