遅れる復旧と生活再建 二重災害、過酷な現実 2年目の被災地・能登〔深層探訪〕
能登半島北部は2024年元日の地震と9月の豪雨という2度の災害に見舞われた。進行する過疎化と老朽化するインフラ。災害前から地域が抱える課題は、再建へ踏み出そうとする被災者に過酷な現実を突き付けている。 【能登半島地震1年】写真で比較する被災地の今 ◇業者不足、届かぬ水 半島の先端に位置する石川県珠洲市。地震と豪雨で2度孤立した大谷地区では、断水が1年間続いた。当初は9月末に復旧する計画だったが、豪雨で浄水場が被災し白紙に。業者不足から一部は年内に間に合わなかった。 遠方の業者にとって、珠洲での仕事は時間も費用もかかる。市の担当者は「思うように進まず歯がゆかった。風呂も入れない環境に長期間従業員を送れないと断られることもあった」と明かす。 珠洲建設業協会などの働き掛けで11月、作業員宿舎が市内に完成。福島県の建設会社社長、遠藤浩二さん(48)はそれを機に重機ごと被災地入りした。「東日本大震災の恩返しにという思いで来たが、思いだけでは人は集まらない。泊まる所がまず必要だ」と環境整備を求める。 断水が続く一帯の住民は「スタートラインにも立てないでいる」と嘆く。吉田秀子さん(75)は、雨水をためて洗濯をしていたが、ボランティアがタンクに生活水を供給してくれるようになり、感謝しきり。「タンクの残量を気にせず風呂に入れる日が待ち遠しい」と願う。 千葉大の丸山喜久教授(地震防災)は「基幹道路が通行可能なら、復旧のスピードが上がり、人手不足もある程度軽減されていたはずだ」と指摘。今回のような遅れは全国の過疎地で起こり得るとし、基幹道路だけでも片側2車線にするなどの対策を訴える。 ◇一家7人「それでも輪島に」 輪島市の山あいにある打越町の谷内均さん(67)の一家7人は2度の避難生活を経験した。地震で加賀市の山代温泉に、豪雨では今も輪島市の避難所に身を寄せる。 かつて11世帯約20人が住んでいた小さな集落も市内外へ散った。自身も豪雨で家を失い、「あそこではもう生活できない。年金暮らしが多く、自力再建も難しい」と話す。 集落で生まれ育ち、大工として生計を立ててきた谷内さんは、農村に住み続けたいと願う。「田舎の者は土と一緒に生活しないとおられん。アスファルトの上は駄目だ」 先が見えない中、小さな望みは、約1キロ離れた土地への集落の集団移転だ。ただ、市に災害公営住宅の建設を要望したものの、色よい返事はない。坂口茂市長は年末の記者会見で、公費で建設する災害公営住宅について「10年で空き家になるような地区に造るのは難しい」と、市街地への集約に理解を求めた。 谷内さんの娘の香奈子さん(43)は、勤務先の介護施設が被災し、同じ施設で働く夫と共に職を失った。3人の子どもを抱え「家を失い、いろいろお金がかかる。どうしても赤字が続く」と将来の不安を拭えない。 輪島を離れるべきか。そんな考えもよぎったが、「輪島の復興を頑張っている人がいる。子どものことを考えると、あちこち行くのも良くない」と覚悟を決めた。 谷内さんは最近、豪雨で流された工具を一式買いそろえた。「これまでお客さんに生活費をもらっていたようなもの。家を直して恩返ししたい」と再起を誓った。