引き返せなかった太平洋戦争への道…満州事変で覚えた「うまみ」、生活よくなり戦争は「善」になった
そうして83年前の12月1日の御前会議を迎え、「対米英蘭開戦ノ件」が決定されます。どんな見通しを持っていたか。これより少し前のことですが、連合艦隊司令長官の山本五十六は「初め半年か1年の間は随分暴れてご覧に入れる」「2年3年となれば全く確信は持てぬ」などと言っています。計画などないに等しい。
国の存亡をかけるなら、どう生き残るか、が優先でしょう。ところがその感覚がない。のちの特攻作戦のように誤った美意識の罠にはまり、どう滅びるか、を優先したわけでもないでしょうに。何より日本は日清戦争後、遼東半島を獲得しながら、ロシアなどの干渉を受け入れ、「臥薪嘗胆」して清へ返還した経験がある。そういう対応もできたはず。ところが、できない。成功体験があったからです。それは満州事変でした。
満州事変で「うまみ」を覚え引き返せず
第1次世界大戦後の世界から見ていきましょう。
国際連盟が創設され、平和を希求する時代に入る。理念上はそうですが、発言力を増す国民にとって大事なのは生活で、20世紀の政治は経済要因に左右されるようになります。
その経済は1920年代、初歩的ながら米国中心にグローバル化が進み、米国で起きた大恐慌の影響を世界に波及させてしまう。経済政策に即効性はありません。でも、国民は納得しません。結果として、大衆迎合的な政策を主張する政治勢力の方が支持を集めやすくなる。これが大恐慌後に起きたことでした。
ドイツ経済も壊滅的な影響を被りましたが、33年に政権を握ったヒトラーは、大規模な公共事業などで雇用創出や失業対策を打ち出し、立て直しを図る。お金が市中に流れ、景気がよくなったような気になる。ワイマール共和国時代に着手されていた事業もあったが、共和国がなくなり、ナチス政権が継承した。しかし、国民からすれば、それはナチスのおかげと映りました。
その点、日本経済の立ち直りはかなり早かった。大きな要因が、満州事変でした。31年9月、関東軍は奉天(現・瀋陽)郊外の南満州鉄道の線路を爆破して軍事行動を起こすと、満鉄沿線の要衝を次々に制圧し、翌年3月に満州国を建国しました。