緊迫度を増す南シナ海情勢:フィリピンから考える海洋における法の支配の促進
問題を「見える化」したマルコス政権
それでは、なぜマルコス政権期に状況が悪化したように「見える」のだろうか。この疑問に対する答えは、マルコス政権が政策を変えたからである。ただし、ここでいう政策転換とは、対中接近から対米接近へという話ではない。南シナ海で起きていることについて、原則非公開から原則公開へと切り替えたことがより重要である。 一部の専門家が「積極的透明化作戦」と呼ぶように、マルコス政権は、南シナ海で起きた事象をほとんどリアルタイムで公表するようになった(※7)。その結果、世界中の人々が、フィリピンの排他的経済水域の中で中国が何をしているのか、いかに頻繁に嫌がらせをしているのかを理解するようになった。 もちろん、こうした情報公開は、情報収集を行う能力なしには実現不可能であり、この10年で進んだフィリピン海軍及び沿岸警備隊の能力強化が背景にある。これについては、2012年以来継続している軍近代化と、沿岸警備隊の能力強化が重要である。前者については米軍やオーストラリア軍との演習などを通じた協力、韓国やオーストラリア、インドネシア、日本といった友好国からの戦闘機を含む防衛装備品調達がある。後者については、米国政府による海上認識能力(MDA)強化を目指す協力と、日本の海上保安庁との協力が重要である。 これらの能力強化は、ベニグノ・アキノ政権が開始し、その後に親中姿勢を強めたドゥテルテ政権下でも継続してきた(※8)。マルコス政権は、過去10年の能力強化の果実を享受しているといえる。
エスカレーション避けるための警察比例の原則
南シナ海情勢に関してだれもが関心を持っているのは、果たしてフィリピンと中国の対立はエスカレートしてしまうのかという問題である。どの国も望んでいないとは思うが、フィリピン政府は間違いなくエスカレーションを望んでいない。その証左は、透明化作戦を担うのが沿岸警備隊であることにみてとれる。 2012年の中国公船とフィリピン公船との対峙(たいじ)の際、中国側は、自国の漁船に対してフィリピン政府が海軍所属の軍艦を派遣したことを批判した(※9)。その後、中国政府自身は海上法執行機関と海軍との区別があいまいになるような法整備を行ったのに対し、フィリピン政府は、軍と法執行機関の役割分担を前提として、沿岸警備隊の能力強化を図ってきた。 沿岸警備隊強化の一環として、フィリピン政府は、円借款を通じて日本から12隻の多目的船を調達、シエラ・マドレの補給作戦の最前線にも配備してきた。 日本政府のフィリピン沿岸警備隊に対する協力の特徴は、モノの供与にとどまらない点である。日本の海上保安庁は、既に1990年代から海上保安の分野で能力構築支援に関わっており、2000年代以降は、海賊や海上強盗を含む海上治安の分野にも協力対象を広げてきた(※10)。その際、強調されるのが警察比例の原則という実力行使をめぐる規範である。国際協力機構(JICA)で長く海上保安分野を総括した池田龍介氏は、「軍隊では敵対する相手を倒すための手段は問われませんが、PCG[フィリピン沿岸警備隊]には相手の抵抗の度合いに応じて必要最小限の権限を使うことが求められ」(※11)ると説明する。もともと、フィリピンの沿岸警備隊と日本の海上保安庁は、米沿岸警備隊をモデルとするなどの共通点もあり(※12)、日本の法執行分野での協力はフィリピンにとっても重要かつ受け入れやすい内容だったといえる。