緊迫度を増す南シナ海情勢:フィリピンから考える海洋における法の支配の促進
高木 佑輔
南シナ海で、海洋進出を強める中国とフィリピンの緊張が激化している。国際社会への「積極広報」に転じたフィリピン・マルコス政権の方針転換と、その背景などについて解説する。
焦点となった座礁船シエラ・マドレ
フィリピンの排他的経済水域(EEZ)内にあるセカンド・トーマス礁(フィリピン名アユンギン礁)が新たな南シナ海情勢の焦点となって久しく、日本政府や米国政府も「深刻な懸念」を表明してきた(※1)。同礁には、1999年にフィリピン政府がフィリピン海軍の輸送船BRPシエラ・マドレを座礁させ、海兵隊員を常駐させ監視拠点としてきた。ただし、座礁したシエラ・マドレだけで自給することは不可能で、外部からの定期的な補給と人員交代が必要となる。フィリピン海軍は、喫水の浅い船しか近づけない浅瀬を進んでシエラ・マドレに到達し、人員交代や必要物資の補給を続けるしかない。 こうした状況に対し、南シナ海で「歴史的権利」を主張する中国による妨害行為が続いている(※2)。2023年に耳目を集めた事案だけでも、中国の海警船によるフィリピン沿岸警備隊の巡視船に対するレーザー照射(2月)、同じく海警船による巡視船に対する放水銃の使用(8月)、海警船とフィリピン海軍のチャーターした補給船との衝突、続けて中国の民兵船とフィリピン巡視船との衝突(10月)、さらに海警船による放水と海警船と巡視船との衝突(12月)などがある。24年も状況は変わっておらず、フィリピン海軍が対応した際には、重傷者を出すに至った。一連の緊張状態の高まりが新しい常態であるかのようにさえみえる。 本稿では、このシエラ・マドレ補給をめぐる攻防の経緯を振り返りながら、海上における法の支配の促進についても考えていく。
ドゥテルテ時代も続いた中国の妨害行為
シエラ・マドレの補給作戦に関して、フィリピンと中国のどちらが事態を緊張させているのかという論戦が一部でみられる。フィリピンでは、2022年にドゥテルテ大統領が退任し、フェルディナンド・マルコス大統領が就任した。マルコス大統領は、就任以来、選挙戦当時のあいまいな態度から一変、対米関係強化に明確にかじを切っている(※3)。このことから、一部では、マルコス政権の積極的な対米接近が中国を刺激したという批判がある。 しかしながら、既に2010年代初頭には中国はシエラ・マドレへの補給作戦を妨害するようになった(※4)。そして、対中接近を図ったドゥテルテ大統領の時代にもそれは継続した(※5)。18年5月、中国人民解放軍海軍のヘリコプターが、フィリピン海軍のゴムボートに危険なほど接近した。ただし、この事案は、元海兵隊で当時国会議員であったギャリー・アレハノ氏が公表したもので、当時の外務省は問題を矮小(わいしょう)化しようと試みた。 アレハノ氏が、危険な行為でありいやがらせ(harassment)だと公表した後、アラン・ピーター・カエタノ外相は、偶発性をにおわせるような「事件」という表現を選んだ(※6)。ようやく19年9月になると、外務省ではなくフィリピン国防省が、少なくとも1隻の中国海警船がセカンド・トーマス礁付近に派遣され、しばしば補給作戦を妨害していることを公表した。21年11月には、中国の海警船2隻が、補給を試みたフィリピン海軍の木製ボートの航路を妨害、3隻目の海警船が放水銃を使用したため、ボートは補給を中断せざるを得なかった。その後、フィリピン政府は補給をあきらめることはないものの、中国側の妨害行為は継続してきた。 ドゥテルテ政権期の妨害行為の継続を考えれば、マルコス政権が事態を悪化させているという批判は根拠が薄弱、あるいは物事の順番が逆である。そもそも歴史をさかのぼれば、1995年に、中国は一方的にミスチーフ礁をフィリピンから奪い、その後は交渉で時間を稼ぎつつ、現状維持を約束しておきながら、99年にはミスチーフ礁の建物を堅牢化した。外交交渉が時間稼ぎに過ぎないのではないかと焦ったフィリピンの国防省が知恵を絞ったのが、シエラ・マドレを座礁させる作戦であり、ミスチーフ礁の強奪がなければ、シエラ・マドレ補給をめぐる対立さえ存在していなかったはずである。 南シナ海情勢を理解する上で、特定の時点に公にされている情報だけを切り取るのではなく、歴史的な経緯を理解する事の重要性が改めて浮き彫りになる。