連戦連勝のモンゴル帝国はなぜ突然ヨーロッパ征服をやめたのか、ウィーンを征服目前
モンゴル軍の侵攻と突然の撤退
その後、バトゥ・ハーンとスブタイは、軍事史上最も効果的で華麗な侵攻を組織した。モンゴル軍は3つの部隊に分けられ、ウクライナから別々のルートで目的地に向かい、700キロ離れた2つの地点からほぼ同時にヨーロッパに攻め入った。 モンゴル軍の部隊の1つは2万人からなり、ポーランド南部に侵攻した。1241年4月9日、彼らはヘンリク2世が率いるポーランド人、モラビア人、テンプル騎士団の連合軍と現在のポーランド、レグ二ツァ郊外(ワールシュタット)で激突した。 モンゴル軍は旗や鏑矢(かぶらや、音の鳴る矢)で互いに連絡を取り合う襲撃隊を組織し、フェイント攻撃と撤退するふりを繰り返して連合軍を混乱させた。また、重騎兵をかく乱し、歩兵を無防備にするため、煙幕も使って攻撃した。 モンゴル軍はワールシュタットの戦いで重要な勝利を収めた。ヘンリク2世は戦死し、モンゴル軍は数週間にわたりヘンリク2世の首を槍の先に刺して掲げていた。 この勝利からわずか2日後の1241年4月11日、本隊を率いるバトゥ・ハーンは、モヒでベーラ4世率いるハンガリー軍を撃破した。モヒの戦いでは、「ネルゲ」と呼ばれる残忍な作戦が用いられた。これは、馬に乗って獲物を円形に囲み、円を小さくしながら獲物を仕留める狩猟戦術だ。 この戦いで、ハンガリー軍は1万人以上の兵士を失い、ベーラ4世はクマン人の護衛とともに追っ手をかわしてアドリア海の小島に逃げ延びた。 モンゴル軍は、モヒの戦いの後、ハンガリーの首都ストリゴニウム(現在のエステルゴム)を略奪した。ハンガリー人の抵抗によりモンゴル軍はドナウ川の西側に9カ月間押しとどめられていたが、冬の寒さでドナウ川が凍結するとモンゴル軍の大軍勢が川を渡り、ついにウィーンに到達した。 ところが完全な征服を目前にしてモンゴル軍の進撃は突然止まり、モンゴル高原へと撤退していった。1242年春のことだった。 この唐突な撤退の原因をめぐっては、今も議論が続いている。一部の資料は、1241年12月のオゴデイの死をその原因としている。バトゥ・ハーンもスブタイも、新しい指導者を選出する選挙に参加するために、モンゴルのカラコルムに戻る必要があったのかもしれない。 けれども一部の歴史家は、モンゴル軍がこれほど早くオゴデイの死を知ることができたはずがないとして、天候など、他の理由があったのではないかと指摘している。気温の急激な低下とモンゴル馬に必要な牧草の不足により、軍隊に戦術的な問題が生じた可能性がある。 最近の考古学研究により、ハンガリー侵攻におけるモンゴル軍の死傷者数は、これまで報告されていた数よりも多かったことが明らかになっている。この大損害がモンゴルの将軍たちに退却を決意させたのかもしれない。