連戦連勝のモンゴル帝国はなぜ突然ヨーロッパ征服をやめたのか、ウィーンを征服目前
チンギス・ハーンと後継者による征西、「軍事史上最も効果的で華麗な侵攻」
歴史はチンギス・ハーンを、冷酷な征服者と、陸続きでは史上最大の帝国の創始者という2つの異なる顔で記憶している。1206年、チンギス・ハーンは、モンゴル高原のすべてのテュルク系、アルタイ系の遊牧民を統一するという、他の多くの征服者がなしえなかったことをなしとげたが、それはほんの始まりにすぎなかった。モンゴル帝国の初代皇帝となった彼は軍事の天才で、軍隊を大胆に動かして領土を拡大し、状況に合わせて速やかに動き、ねばり強く戦った。 ギャラリー:連戦連勝のモンゴル帝国のヨーロッパ侵略 写真と画像13点 チンギス・ハーンの帝国はアジア全域に広がり、既存の国家を一掃した。東方では、現在の中国にあった女真族の金とタングート族の西夏を滅ぼし、西方では、中央アジア南部の契丹族の西遼とホラーサーン地方のホラズム・シャー朝を滅ぼした。ホラズム・シャー朝は、モンゴル軍から逃亡した裏切者や遊牧民をかくまうことで、モンゴル帝国に抵抗していた。
ヨーロッパでの最初の勝利
1223年、チンギス・ハーンははるか西方のカスピ海と黒海の北のキプチャク平原に住むテュルク系遊牧民のクマン人の征服を計画し、ジェベとスブタイという2人の優れた武将に2万の軍勢を与えて討伐に向かわせた。 モンゴル軍の攻撃が迫っていることを知ったクマン人の指導者コチャンは、東スラブ系のルーシ人のキエフ(キーウ)大公国に助けを求め、8万人の連合軍を編成した。 数で劣っていることを知ったモンゴル軍は、相手を欺く作戦に出た。スブタイはみすぼらしい装備の2000騎の軍勢のみを率いて進軍し、連合軍の大軍を見たら「パニックになって逃げるふり」をするように命じた。 この策略に引っかかった連合軍はモンゴル軍を9日間にわたって追いかけ、現在のウクライナのマリウポリ近くのカルカ川までおびき出されると、ここで待ち構えていたジェベ率いる本隊に攻撃され、大敗を喫した(カルカ河畔の戦い)。これが、ヨーロッパでのモンゴル軍の最初の勝利だった。 しかし、モンゴル軍はその先の侵攻に失敗すると中央アジアに戻っていった。その後、将軍たちは中国北部で金の征服に赴くことになるが、この遠征は何年も長引いた。