連戦連勝のモンゴル帝国はなぜ突然ヨーロッパ征服をやめたのか、ウィーンを征服目前
再びヨーロッパへ
チンギス・ハーンが1227年に没し、後継者となった息子のオゴデイ・ハーンが西方への新たな攻勢を命じたのは1235年のことだった。オゴデイは、クマン人とその同盟国を完全に制圧しようと考え、12年前に父が送り込んだ軍団をはるかに上回る10万人規模の騎馬軍団を編成した。 オゴデイは甥のバトゥ・ハーンを西征の指揮官に任命した。モンゴル軍はボルガ川上流域から侵入し、クマン人、アラン人、ブルガール人の軍勢を破り、再びキエフ大公国を攻撃した。1237年末、ロシア最初の巨大要塞リャザンは6日間の包囲戦の末、陥落した。 バトゥ・ハーンとその軍隊は、キエフ大公国の諸都市を席巻した。1240年末にはキーウが、9日間の包囲戦の末に陥落した。モンゴル軍は捕虜の軍事知識を取り入れたことで知られ、中国の攻城兵器や可燃性の液体や火薬は、このとき初めてヨーロッパで使用された。
征服と虐殺
ヨーロッパの史料には、モンゴル軍は都市を征服するたびに住民を虐殺し、強制労働に使える者だけを生かしておいたと記録されている。クマン人の被害は甚大で、10万人以上が殺害された。 約20年前と同じように、クマン人の指導者コチャンはスブタイの剣をかろうじて逃れて脱出し、約4万人の生存者とともにハンガリー王ベーラ4世にかくまわれた。 バトゥ・ハーンはウクライナ南部の拠点からベーラ4世に書簡を送り、クマン人の亡命者を引き渡さなければ恐ろしいことになると警告した。ベーラ4世はこの脅しに屈せず、クマン人をカトリックに改宗させてハンガリー文化に溶け込ませようとした。 しかしハンガリー国民はモンゴルからの脅迫を恐れ、クマン人のことも快く思っていなかったため、コチャンはハンガリー貴族によって殺害されてしまった。 ベーラ4世は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に援軍を求めたが拒絶され、ローマ教皇グレゴリウス9世にも助けを求めた。教皇は小規模な十字軍を組織すると約束したものの、実際に軍隊を派遣することはなかった。ベーラ4世が唯一固い約束を取り付けられたのは、シロンスク(シレジア、シュレジエン)公にしてポーランド大公でもある従兄弟のヘンリク2世だけだった。