岸田政権目玉の「新しい資本主義」は古い? 本当に必要なのは「魂の資本主義」
実はキリスト教(新教)が資本主義の原点であった
ドイツの政治・経済・社会学者マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳・岩波文庫1989年刊)は社会科学の分野における世界的な名著であるが、その内容は、キリスト教の中でもプロテスタント(新教)に特有の、勤勉、倹約、天職の概念、計画性、個人的価値観などの倫理概念が資本主義を推進したという論理である。たとえば『フランクリン自伝』(松本慎一、西川正身訳・岩波文庫1957年刊)などにその精神が読み取れるし、福沢諭吉や渋沢栄一などの著書と行動にも、キリスト教に代わる日本的な(儒教的なあるいは武士道的な)道徳精神と資本主義との関係が読みとれる。資本主義の根幹は、利潤や所得や消費といった経済指標で表されるものだけではない。マルクスもケインズも魅力的な理論であるが、仕事に打ち込む人間の魂への視線が感じられない。 今の日本では、経済政策、財政政策、金融政策などについての専門家の判断が大きく分かれ、人によってはお金をどんどん発行すればいいとか、無駄遣いを奨励するような発言も見られるのだが、僕の周囲には、経済学にうとい技術屋が多く、ほとんどの人は勤勉、倹約、挑戦、革新という旧来の技術者モラルを信奉している。「新しい資本主義」を追い求めるのもいいが、今の日本は、もう一度この「資本主義の原点」に立ち返る必要があるような気がするのだ。
魂の資本主義を復活させる
岸田政権の方針に反対というわけではない。分配も、デジタルも、脱炭素も、基礎研究も、人への投資も必要である。しかしそういったことを本格的に実現するには、国民にそうとうの覚悟が必要で、赤字国債を発行して大規模な予算を投じればいいというものではないだろう。 よくいわれる「GAFA」のような企業に利益を独占されるのは腹立たしいが、日本という国が、アメリカや中国のような国に対抗し、その後を追うような政策をとるのは、うまくいかないような気がする。日本人特有の、仕事に魂を込めるという姿勢を捨てるべきではなく、それが経済力に反映される状況を復活させる方がいい。二つの可能性がある。 一つは、いわゆる政治改革、行政改革、規制改革などによって中枢をスリム化し、ともすれば崩れがちな「ものづくりの質」を高め続けることである。今は「GAFA」のような企業が利益を独占していても、いずれ、良質なものづくりを必要とする時がくる。もう一つは、日本人の仕事の魂を、デジタル時代に合わせていくことである。マンガ、アニメ、ゲームなどの質が高いのもその一つであり、これはメタバースやAIクローンなどの技術にも活かせるだろう。ものづくりの魂がソフトウエアづくりの魂に転化すれば大きな力となる。 そして重要なことは、社会がこういった魂に活躍の場を与えることである。それが結果に現れた場合には高く評価することである。アメリカはもちろん、中国や韓国などでも、努力の結果としての成功にはそれなりの対価を与えているが、現在の日本では同調と忖度ばかりが評価されている。全体に保身社会となって、戦後の成長を切り拓いてきたような、魂のある挑戦者がいなくなっている。 岸田政権は「新しい資本主義」の方針を決める有識者らによる実現会議を組織したが、そのメンバーはこれまでの資本主義における成功体験をもつ人が多い。「新しい酒は新しい皮袋に」のたとえもある。新しくない会議から何か新しいことが生まれるだろうか。無駄な会議こそ日本凋落の一因ではないか。 かたちばかりの新しさを求めるより原点に立ち返ることである。 「勤勉・入魂・挑戦」それ以外の道はない。今、日本のスポーツ人が強いのは、それを知っているからだ。 この国は必ずよみがえる。