岸田政権目玉の「新しい資本主義」は古い? 本当に必要なのは「魂の資本主義」
日本人の仕事は「入魂主義」
前回、日本人は仕事に魂を込めると書いた。少しくり返すが、仏師は仏像に魂を込める。刀鍛冶は刀剣に魂を込める。大工は柱梁に魂を込める。料理人は料理に魂を込める。音楽家は演奏に魂を込める。新聞記者は記事に魂を込める。俳人は5・7・5に魂を込める。日本人は誰も、自分の仕事に魂を込めている。 たとえば、建築家は自分の作品の価値を、床面積や販売価格といった数値でとらえようとはしないものだ。ル・コルビュジエのサヴォア邸や安藤忠雄の住吉の長屋など、経済的価値は無視されるほど小さいが、建築史における文化的価値はとても大きい。仕事に込められる魂の価値はGDPには計上されないのである。 岸田政権は「人に投資する」として、企業の人材育成を援助するという。それは結構なことであり必要なことであるが、それが本当に、仕事に対する魂を育てることになるかどうか。日本だけではなく、どこの国でも、科学者や芸術家の仕事は、金では動かないところがある。技術者は産業に組み込まれた存在だが、日本の技術者は特に、利益を無視してでも仕事に魂を込める性質があり、その努力のほとんどはGDPに反映されない。日本人の仕事は、資本主義的でも社会主義的でもなく、入魂主義的なのだ。
ものづくり文化の三国同盟
もちろんその技術者魂が、経済的な数字に反映されることもある。一昔前、トヨタ、ホンダ、ソニー、パナソニック、ニコン、キヤノン、セイコー、富士フイルムなどの製品、また原子炉、造船、プラントなど、すべての工業分野において、日本技術圧勝時代があった。その意味で僕らの世代は、誇りをもって仕事ができ、海外に出ても心豊かに過ごせたのは、幸せだったのかもしれない。 それはたまたま、日本人の昔からの職人魂と工業製品の品質とがちょうどマッチして競争に勝ち抜いた、めったにない時代であったのだ。 僕は建築家でもあり、大工を中心とする日本の伝統的木造建築技術の精妙さが近現代の工業製品に反映された、と書いてきた。日本は木の文化の国であり、木材の扱い方には伝統的に積み上げられた職人の魂がやどるのだ。 一方海外を見渡すと、イタリアの革製品にはそれに近い伝統的なものづくり精神の蓄積を感じるし、ドイツの鋼製品にも同様のものを感じる。日本とイタリアとドイツには、フランスの合理主義(理論に現実を合わせる)と視覚的美意識、イギリスとアメリカの現実主義と組織づくりの能力とは異なる、ものづくりに対する精神的こだわりがあるようだ。そう考えれば日独伊三国同盟も、あの時代における合理主義と現実主義に対する、精神主義の同盟であったという見方もできようか。リーダーたちは賢明であったとはいえないが、国民にはそういう無意識の同意があったのではないか。敗戦によって、その軍事面における効用は否定されたが、ものづくりにおける効用は生きつづけたのではないか。 もちろん戦後のイタリア経済が強いとはいえないが、何といってもミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチを生んだ国であり、都市の隅々にその文化が息づき、小さな町の建築にも歴史の重みが感じられる。文化的潜在力は途方もなく大きいのだ。今度は軍事のではなく「ものづくり文化の三国同盟」を結んではどうか。若者たちに期待したい。 しかし現在の日本は、どうもそのものづくり魂と社会環境がマッチしていないような気がする。 中枢管理組織は何も決められない会議で時間を無駄にしている。何か問題が起きると現場の実態を無視した細かい規則でがんじがらめにする。その管理と現場のギャップが、検査の手抜き、データ改竄などの、これまでならありえないような失態を生む。テレビ局は視聴率を気にして、アイドルとお笑い芸人ばかりに脚光を当て、若者はそちらに引き寄せられる。 難しい数学や理科の勉強をして、実験、観察、計算。汚れも危険もある現場の仕事。華やかな脚光を浴びることもない。しかも金融やマスコミや商社などと比較して収入が高いとはいえない。他国と比べてもこの国の専門技術者が優遇されているとはいいがたいのだ。 現代日本の大きな問題は、政治、管理(行政と大企業)、教育、マスコミなどの形式主義と怠慢、すなわち魂の貧困が、ものづくり魂そのものにほころびを生じさせていることではないか。