「室井慎次」が黒澤明、イーストウッドから〝盗んだ〟もの 次に見るべき1本への道しるべ
テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である。(注1) あらゆる表現行為はつねに「盗用」と骨がらみである。およそ盗用でない表現など存在しない。いまここに書かれつつある私の文章とてその例外ではない。「盗用」がドギツク感じられるようなら「流用」や「奪用」でもいいし(いずれもアプロプリエーション[appropriation]の訳語である)、さらにソフトな表現を望むのであれば(バルトに倣って)「引用」としても差し支えない。そうしたければ「オマージュ」でも「パロディー」でも「パスティーシュ」でも「コラージュ」でも「アダプテーション」でも何でも、文脈に応じて銘々が好きな言葉をあてがえばよい。 【写真】タカ(斎藤潤)とシンペイ
言葉は無から生じない 「文化」も源はラテン語
「そんなことより早く映画の話をしろ」と思われるかもしれないが、ピンときていない読者のために言語表現を例にとって補足しておく。言語それ自体は我々に先立って存在する。言葉は我々が発明したものではなく、我々は他者の言葉を模倣することによってしか、自らを表現できない。たとえば「文化」という言葉がある。我々がごく日常的に用いる言葉であり、特に難しい語彙(ごい)ではない。しかし、無から突然生じたわけでもない。 日本語の「文化」は英語cultureの訳語として幕末から用いられ始め、明治時代に定着を見た。西洋から流入してきた概念に数々の卓抜な訳語を与えた哲学者の西周(にし・あまね)は、早くから今日とほぼ同じ意味で「文化」を使用している(「概念」や「哲学」もまた西が考案した訳語である)。「文化」という語自体の典拠は中国に求められるが(注2)、英語のcultureにしても、「耕作する」という意味のラテン語の動詞colereやその名詞形culturaに由来すると考えられている(注3)。「文化」のような一般的な語彙でさえ、我々は複数の文化(言語)からの盗用を試みており、そうして成立した語を自分の文章のなかで盗用し続けているのである。(注4) 「いやいや、そうした伝播(でんぱ)の仕方はむしろ言語の本性であって、一般に〝盗用〟とは言わないだろう」と思われるかもしれない。「そんなものまで盗用扱いし始めたらすべてがそうなってしまうじゃないか」と。だから「およそ盗用/流用/奪用/引用でない表現など存在しない」と言ったのである。その意味で、人類の文化史は盗用の歴史である。もちろん、これは言葉の定義の問題であって、じっさいにどう呼ぶかはことの本質ではない(注5)。盗用にも程度の差があることは自明だが、ここではその差を意図的に捨象している。私の想定している定義に同意できなくとも、そのような営みが広く存在していることを思い出してもらえればまずは十分である。