「室井慎次」が黒澤明、イーストウッドから〝盗んだ〟もの 次に見るべき1本への道しるべ
〝盗用〟からは逃れられない
よもや誤解の余地などあるはずもなかろうが、私は盗用が悪いことであるとは言っていないし、もちろん考えてもいない(良かれあしかれ盗用からは逃れられないのだから引き受けるしかない)。著作権法のような何らかの外的基準に照らして「良い盗用」と「悪い盗用」を想定することは一応可能だが、しかし、法はすべてを解決してくれるわけではない。「法に反した良い盗作」や「反していないが悪い盗作」を考えることもできる。 法的な問題はなくとも、倫理的な問題が指摘される事例など枚挙にいとまがない。多くの場合は両方の観点が混じり合って収拾がつかなくなっている。いずれにせよ、白か黒かの二分法で決められるようなものではなく、広大なグレーゾーンを挟んでさまざまな「盗用」がグラデーション様に分布している。言葉の意味には厚みがあるので、法が想定している盗用や引用と、日常語彙としてのそれとのあいだには乖離(かいり)があるし(注6)、個々人の感覚の差も大きい(注7)。現実に盗作騒ぎが持ち上がった場合には、その性質(法的な問題なのか倫理的な問題なのか)や程度(アイデアが共通しているのか、具体的な表現が酷似しているのか)、あるいは分野ごとの慣習などを勘案して総合的に考えなければならない(「総合」も西による訳語)(注8)。
鑑賞の質高め、鑑賞眼も鍛える効用
映画においても事態は同様である。あらゆる映画は一本の作品として独立しているように見えつつ、同時にほかのさまざまな作品とのあいだにつながりを持っている(間テクスト性)。「踊る大捜査線」シリーズの最新のスピンオフ映画たる「室井慎次 敗れざる者/生き続ける者」(本広克行監督、2024年)2部作もまた、先行作品に多くを負っている。先の定義に照らせば「盗用」の実践例ということになろうが、もちろん、法的な意味で作品を断罪する意図はみじんもなく、また倫理的な観点から批判しようという気もさらさらない。 むしろ、わかりやすい「盗用」は観客にとってはありがたいものであるとさえ言える。ある映画を起点にして、そこから関連する別の映画へと鑑賞を進めていくことは、映画をよくばりに味わう極意である。先行する作品から何をどのように取り入れたのか、その試みは成功しているのか等を考えながら見ることで、おのずと映画鑑賞の質が高まり、楽しさの幅が広がるのみならず、鑑賞眼も鍛えられるからである。