「室井慎次」が黒澤明、イーストウッドから〝盗んだ〟もの 次に見るべき1本への道しるべ
「室井慎次」が参照しているのは、もちろん黒澤映画だけではない。たとえば監督の本広克行は、参考にした映画として「グラン・トリノ」(クリント・イーストウッド監督、08年)と「ラスト・バレット」(フレデリック・プティジャン監督、19年)のタイトルを挙げている。作品のルックを象徴する室井の家は、「ラスト・バレット」でジャン・レノが暮らしている山小屋をイメージして制作部に探してもらったのだという(注11)。いずれの家も池のほとりにひっそりとたたずんでおり、また雪景色のイメージと遭難しかねないような周囲の地形も共通している【図4、5】。「正体不明の若い女性が突然やってくる」という設定にも連続性を見いだすことができる。
「グラン・トリノ」の換骨奪胎
本広はまた「ガレージは、クリント・イーストウッド監督・主演の映画『グラン・トリノ』(2008)みたいに、道具がピシッとそろってる、男の子の大好きなヤツをやらせてもらいました」と述べている(注12)。だが、私見では「室井慎次」2部作が「グラン・トリノ」から借り受けているのは単にガレージのイメージだけにとどまらない。これは脚本家の君塚良一の手腕によるものだろうが、本作は「グラン・トリノ」を換骨奪胎したものと言ってもいいくらいである。作品の根幹をなすテーマや登場人物の造形から、鍵となるいくつかの設定に至るまで、「グラン・トリノ」は重要な参照源となっている。 そのゆえんを詳しく紹介するための紙幅はもはや残されていないが、「室井慎次」に満足した人にも、あるいは不満を覚えた人にも、次に見るべき映画としてぜひとも「グラン・トリノ」をおすすめしたい。「グラン・トリノ」は、真に賢い犬がどういうものかを教えてくれる映画である。
注1 ロラン・バルト「作者の死」、『物語の構造分析』花輪光訳、みすず書房、1979年、80ページ。 注2 「文選」には「観乎天文以察時変、観乎人文以化成天下(天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化成す)」の一節がある。そもそも漢字は中国から輸入したものであり、そこからかな(ひらがな・カタカナ)を派生させて今日のような日本語の体系を作り上げた点にも思いをはせておくべきかもしれない。 注3 「文化」という語をめぐる一連の説明は、小松寿雄・鈴木英夫編「新明解語源辞典」(三省堂、2011年)と廣松渉ほか編「岩波 哲学・思想事典」(岩波書店、1998年)の記述に依拠したものである。 注4 これに限らず、和漢の典籍から流用しているケースは非常に多い。「昭和・平成・令和」といった我々にとってなじみの深い「元号」もそうである(「文化」も江戸時代に元号として採用されている)。あるいは、私は愛知県にある時習館高校出身だが、校名の「時習」は「論語」の一節「学びて時に之を習う、亦説(よろこ)ばしからずや」に由来する。吉田藩の藩校の名称をそのまま引き継いだものである。同名の藩校は全国にいくつか存在しており、熊本藩にもかつて時習館が存在した。現在、熊本大学の隣には濟々黌(せいせいこう)という高校があるが、こちらは「詩経」の「濟濟たる多士、文王以て寧んず」に由来する。出典を同じくする四字熟語に「多士済済」がある。 注5 「批評家たるもの言葉の意味には厳密でなければならない」という規範が存在するとして、そこで言われているのは「誤解の余地なく言葉の意味を一意に定めて用いること」ではない。むしろそれとは逆に「言葉の意味に幅があること」を引き受け「意味の幅を不当に縮減しないこと」が求められる場合もある。 注6 おそらく哲学や現代思想の難しさの一因でもある。哲学者はしばしば日常的な語彙を抽象度の高い術語に転用し、独自の意味を与える。その用語を別の哲学者が引き継ぐ際には、さらに意味がずらされていく。その意味の揺らぎに付き合い、のみならず簒奪(さんだつ)のすきをうかがうこと。それが人文学における記号操作の基本であり、習得には多年を要する。 注7 先ごろ「渋谷ハロウィンは文化かどうか」をめぐってSNS上で展開された論争は典型的な例である。人によって「文化」の意味が異なるのだから、「文化かどうか」を議論しても落としどころなど見つかるはずもない(ちなみに私は「渋谷ハロウィン」は立派な文化だと思っている)。むしろ批評的には、その意味の乖離(かいり)がなぜ生じているのか(ある種の人々は何をもって文化と見なす/見なさないのか、その歴史的経緯はどのようにたどれるか)について考えをめぐらせた方がはるかに生産的だろう。 注8 具体的な事例については栗原裕一郎「〈盗作〉の文学史 市場・メディア・著作権」(新曜社、2008年)などを参照されたい。 注9 【後編】宇多丸「室井慎次 敗れざる者」を語る!【映画評書き起こし 2024年10月31日放送】、https://www.tbsradio.jp/articles/89509/ 注10 「全集 黒澤明」(岩波書店)は6巻+最終巻の合計7巻からなるが、この場面には6巻までしか映っていない。ここに存在しない最終巻には黒澤の晩年の作品「夢」(1990年)、「八月の狂詩曲」(91年)、「まあだだよ」(93年)の3作のシナリオが収録されている。黒澤の遺作となった「まあだだよ」の終盤には、喜寿を迎えた内田百閒(松村達雄)がケーキを運んできた子どもたちに「生き方の指針」を語るシーンがあり、里子たちの将来を見据えていた室井の姿と重ならなくもない。つまり、7巻のうちの1巻分をあえて写さないことで、むしろ注目を集め、深読みを誘うように促しているのではないか。一方で、6巻まで(87~88年)と最終巻(2002年)のあいだには刊行時期の隔たりがあり、単に小道具として用意したのが6巻までのセットだった可能性もある。 注11 「「踊る大捜査線」本広克行、再始動は一度断った 『室井慎次』監督を引き受けた理由」(取材・文:早川あゆみ)、「シネマトゥデイ」、最終閲覧日2024年11月22日、https://www.cinematoday.jp/news/N0145571。 注12 同前。
映画研究者・批評家 伊藤弘了