平成の日本政治とは?(2)冷戦後の世界戦略を考えなかった日本
政治という観点から見た「平成」は、国内外ともに激動の時代でした。国内では「平成の統治機構改革」と呼ばれる政治・行政改革が実行され、政権交代可能な二大政党制をイメージした小選挙区制の導入や、政治主導を進めるために官邸機能の強化が図られました。一方、国外に目を転じると、平成元年にあたる1989年に「ベルリンの壁」が崩壊し、冷戦が終結。それまでの米国・ソ連の東西陣営による二極体制が終わり、世界が新しい秩序と戦略を模索し始めました。 【写真】平成の日本政治とは?(3)小沢氏めぐる愛憎劇に飲み込まれた30年 平成の30年間で日本の政治はどう変わったのか。「令和」の時代に向け何を教訓とするべきなのか。政治ジャーナリストの田中良紹氏に寄稿してもらいました。 今回は4回連載の第2回。平成の始まりから冷戦の終結後までを振り返ります。
竹下登が思い描いた日本政治の抜本改革絵図
1989年1月7日に昭和天皇が崩御し、「激動の昭和」は終わり、翌8日に「平和が達成される」という意味の「平成」に改元された。しかし政治の世界に「平成」はなかった。 昭和の最後に誕生した竹下登内閣は自民党最大派閥を擁して盤石の態勢だった。その勢いで竹下は大平総理が悲願とした消費税導入に取り組む。しかしそこに待ち受けていたのは戦後最大級の政治スキャンダル「リクルート事件」だった。1988年の夏、新規ベンチャー企業リクルートが政界、官界、経済界、マスコミ界の重要人物に未公開株を購入させていたことが発覚した。 未公開株の購入は違法ではないが、リクルートの経営者・江副浩正は中曽根康弘、竹下、宮沢喜一ら大物議員すべてに未公開株を購入させ、それが値上がり確実であることから「濡れ手で粟」の批判を浴び、国民の怒りを買った。
消費税導入を政権の柱にした竹下は、それを社会保障の財源に充て、少子高齢化に備えようとしていた。ヨーロッパ型福祉国家を目指す野党も反対ではなかった。ところがリクルート事件で国会は荒れ模様となる。審議拒否が相次ぎ、業を煮やした政府与党は消費税法案を強行採決、それに野党が反発し、平成元年の通常国会は予算が通らない異常事態となった。 予算が通らなければ行政機能は麻痺して国民生活に悪影響を及ぼす。ところが新年度の4月になっても国会は動かない。竹下は自分の首と引き換えに予算を通すよう野党に求め、4月25日に退陣を表明した。日本の政治史上、前代未聞の退陣劇であった。 政権が発足した頃、竹下は日本政治の行く末を次のように構想していた。竹下が税制改革をやり、次の総理の安倍晋太郎が政治改革をやる。そしてその次の藤波孝生が地方分権に取り組む。それによって明治以来の官僚主導と戦後米国に主導された日本政治を見直す。 ところが安倍は病に倒れ、次の次と考えた藤波もリクルート事件で起訴された。竹下は安倍に託そうとした政治改革を前倒しし、平成元年を「政治改革元年」と名付けて、自ら政治改革に乗り出そうとするが、それも退陣によって夢破れた。 竹下の後継である宇野宗佑は、6月に首相に就任した直後に女性スキャンダルが発覚。また消費税が4月から導入されたこともあって、7月の参議院選で自民党は結党以来初めて参議院の過半数を失う。首相指名選挙で参議院は社会党の土井たか子を選出し、結局は衆議院から選ばれた海部俊樹が首相になるが、平成元年の日本政治は史上初めてのことばかりが相次いだ。