平成の日本政治とは?(2)冷戦後の世界戦略を考えなかった日本
湾岸危機で多国籍軍への海外派遣は議論すらされず
そして世界が大きく変わる。11月に冷戦構造を象徴する「ベルリンの壁」が崩れ、12月に米国のブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長がマルタ島で「冷戦の終焉」を宣言した。世界は新たな時代に突入するが、それは日本を高度成長に導いた戦後政治の基盤が崩れたことを意味した。 冷戦時代の米国の敵はソ連である。しかし冷戦末期にはソ連以上に日本経済が米国を脅かす存在になった。日本の製造業に米国が勝てないのはなぜか。1980年代終わりの米国にはリビジョニストと呼ばれる対日強硬派が現れ、日本を異質な国だと批判した。 米国議会は1990(平成2)年の末に「日本の経済的挑戦」と題する公聴会を開き、日本の構造をあらゆる角度から分析した。また町の本屋には『来るべき日米開戦』と題する本が積み上げられベストセラーになる。米国の庇護の下で経済成長した日本に対する政策を見直せという米国世論が高まった。 その年の夏にイラク軍がクウェートに侵攻して湾岸危機が起こる。各国は議会を開いて対応を協議し、国連が主導する多国籍軍に34か国が自主的に軍隊を派遣した。その時、日本は国会を開かなかった。開けば憲法論議が巻き起こり、自衛隊の海外派遣が認められる可能性はなかったからである。 唯一、自衛隊派遣を主張したのは小沢一郎自民党幹事長だったが、海部首相をはじめ、与党もみな自衛隊派遣には反対だった。吉田茂が「米国に外交で勝つ」ために利用した護憲思想は根強い力を持っていた。日本政府は国会で議論することなく、法人税の臨時徴収で130億ドルの巨額な資金をつくり、米国に提供する。
日本に敬意を持っていた米国の見方が一変する
この日本の姿勢が海外から厳しい批判を浴びた。当時私はワシントンで米国議会情報を収集していたが、米国人からこう言われた。「日本経済の生命線は中東の石油である。その中東で危機が起きているのに日本人は自分の問題と考えず、国会で議論することもなく、ひたすら米国を頼って来た。日本は経済大国だと思っていたが、大国ではなく米国に従属するしかない2流の国だ」。 私は米国の日本を見る目が一変したと思った。日本経済の台頭に脅威を感じながら、しかしそこまで上り詰めた日本人の努力に敬意を払い、対等な大国同士の関係を築けるかと思っていたら、実は強い国にただ揉み手をする情けない国だと分かり、日本に対する侮蔑の感情が一気に沸き上がってきたのである。 私は日本を経済的成功に導いた吉田の外交術によって、今度はそれまで勝ち得た財産を失うことになるのではないかという思いにとらわれた。平和憲法が経済的成功につながった時代は終わり、平和憲法の弱みに付け込まれる時代が到来したと思った。 1991(平成3)年12月、初の共産主義国家ソ連が崩壊した。米国が唯一の超大国として世界に君臨することになる。米国の政治家たちは大挙してモスクワを訪れ、歴史的瞬間を自分の目に焼き付けようとした。しかし日本からモスクワを訪れた国会議員は一人しかいない。日本の政治家にとって、ソ連崩壊は遠い世界だった。日本はバブル崩壊と金融機関の不祥事に目を奪われていた。