ソフトバンク史上最高のドラフトで“まさかの指名”「千賀滉大や甲斐拓也は質問攻めしていた」育成2位の男が語る“出世組との差”「三軍生活が悔しくて…」
千賀、甲斐の出世に嫉妬「悔しくて…」
最初の頃は三軍の同じグラウンドで一緒に泥にまみれ、長時間のバス遠征をこなし、チームの雑用もやっていたのが、1人、また1人と上のステージへ駆け上がっていく。たまに顔を合わせるのは球場ではなく、球団寮の廊下くらいだった。ナイターの多い一軍と、デーゲームや練習ばかりの三軍では食事や風呂の時間が違う。夜型の生活をする同期生が羨ましくもあり、妬ましくもあった。 「同期入団はもともと支配下5人、育成は僕を入れて6人の計11人。それぞれの立場の違いというより、みんな個性が強かったからそれぞれが独特の世界を持っていて、あんまりまとまりはなかったかな(笑)。ただ、顔を合わせればもちろん会話はしていましたよ。『お疲れ。一軍はどう? 』とか。(甲斐)拓也は大分の実家から車を持ってきていたので、買い物に行くときにはよく連れて行ってもらいました。だけどあの頃は正直、一軍の試合は見られなかった。悔しくて。三軍の監督やコーチから勉強のために見ろと言われない限り、自らすすんで見ることはしなくなっていました」
4年で戦力外…自分は言い訳していた
迎えたプロ4年目、すでにシーズンも半ばに差し掛かる頃。「正直、もうクビになると思ったので、最後くらいは自分の好きにやらせてほしいと監督に直訴しました」。くだんのコーチにも了承をもらい、中原は再びバットを長く持ち、思いっきりフルスイングをするようになった。苦手だった守備にも取り組んだ。高校時代は一塁専門。プロに入ってすぐに三塁も練習したが、チャンスを得るために外野手や二塁手にも挑戦して生き残るために必死にあがいた。だが、遅かった。2014年10月31日、球団から戦力外通告を言い渡された。 「練習はめちゃくちゃした」 自負はある。それでも結果には結びつかなかった。 「やり方が悪かったのもしれない。あと……」。中原はこんな風に言葉を継いだ。 「たしかに千賀とか(甲斐)拓也を見ていたら、コーチ相手にもぐいぐい距離を詰めて、質問攻めにしたりしていた。僕は、自分の話し下手を言い訳にして、それをしなかった。そこに彼らとの『差』があったのだと思います」 二軍のウエスタン・リーグはファームとはいえプロ野球の公式戦だが、独立リーグや社会人、大学らと試合をする三軍戦は非公式戦(練習試合)という扱いになる。そのため、中原はプロ野球の世界で何一つ正式な記録を残せないままユニフォームを脱いだのだった。
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