ソフトバンク史上最高のドラフトで“まさかの指名”「千賀滉大や甲斐拓也は質問攻めしていた」育成2位の男が語る“出世組との差”「三軍生活が悔しくて…」
「自信はすぐに消えた」
だがしかし、プロ野球選手としてスタートを切った2011年1月の新人合同自主トレで、中原はそれまでの人生で感じたことのない衝撃を受けた。 「なんだ、この球は?」 野手同士で行ったキャッチボール。2人一組でパートナーとなったのは“育成5位”の牧原だった。 「マッキー(牧原)が投げるボールが凄かった。あんな伸びる球は見たことがなかった。同じ高校生で、しかも野手なのに、まるでピッチャーのような球を投げてくる。バッティング練習も一緒にやりました。パワーでは負けないと思っていたのにマッキーのスイングは強かった。だから結構飛ぶんです。『あんなに小っちゃい体で、なんで? 』って。僕も鹿児島ではソコソコ注目されて、その中では上のレベルでやってきたつもりでしたが、隣の県(牧原は熊本・城北高校出身)にこんなヤツがいたなんて……と。じゃあ全国から集まっている周りの人たちはもっと凄いわけで、もう自信とか、いきなり無くなりましたね」 さらに同期の中には、支配下のドラフト2位に柳田悠岐というとんでもないモンスターもいた。 「当然まだ一軍で活躍する前なので、僕らと同じ“ルーキー”なのですが、大卒はこんなにも違うのかとショックを受けました。今考えれば、あの人が凄すぎたんですけど」
ナゾの教えに従った…「反抗していい」
とはいえ新人のこの手の話は、プロでは通過儀礼のようなもの。必死にやるしかない。プロ1年目は、チームに新設されたばかりの三軍で2桁本塁打を放ちパワーヒッターの片りんは見せていた。 だが、2年目以降はその持ち味が消えてしまった。当時の三軍打撃コーチがどういうわけか選手全員にバットを短く持たせてコンパクトに振ることを命じたのだ。スラッガー候補にも例外なし。中原は当然、打撃を崩した。己を見失った。だけど、従うしかない。そんな雰囲気だった。 「これは守備担当のコーチに言われたんですけど、『何でもかんでも鵜呑みにしすぎ』『たまにはコーチに反抗してもいいんだよ』『プロ向きの性格じゃないんだよな』と」 同じ3桁背番号でスタートした同期の中で、最初に“出世”を果たしたのは千賀だった。プロ2年目の4月に支配下登録され、すぐに一軍でデビューした。続いて牧原がその年の6月に支配下へ。甲斐は3年目のシーズンオフに支配下登録を勝ちとっていった。
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