藤原氏繁栄の陰の立役者だった陰陽師 平安貴族たちがすがった呪術・祭祀・占術
大河ドラマ『光る君へ』でも度々登場する、陰陽師・安倍晴明。平安の世では、数多の陰陽師が国家や天皇家、そして貴族たちのための呪術・祭祀・占術に勤しんでいた。陰陽師は一体どのような存在で、どういった仕事を担っていたのだろうか。 ■平安貴族たちは不安や恐れから陰陽師の力を求めた 2024年度のNHK大河ドラマ『光る君へ』は登場人物の半数以上が藤原姓。視聴者の中には混乱している人も少なくないようだが、そこは系図や相関図を頻繁に見返すことで、各人の頭の中を整理してもらうより他にない。 貴族としての藤原氏の歴史は7世紀後半の藤原鎌足に始まり、院政が開始されるまでは権力の中枢、遠く幕末までは朝廷で上皇・天皇に次ぐポジションを占め続けた。 ただし、藤原氏は鎌足の孫・曾孫の代頃から南家、北家、式家、京家の4家に分かれ、代を重ねるごとに各家の中でも多くの分岐が生じた。権力の果実を十分に味わい、摂政・関白や内覧の職を独占できたのは、北家の中でも権力闘争に勝利し、疫病による死も免れた特定の家系に限られた。藤原兼家→道長→頼通と続く家系がそれで、この道長・頼通の代こそ、藤原摂関家の全盛期でもあった。 藤原摂関家の権力を支えたのは天皇との姻戚関係、公職に伴う手当及び役得、荘園から上がる利益、家人からの付け届けなどからなる財力で、上級貴族の中でもさらにトップクラスにあることから、陰陽寮の役人を優先的に利用することもできた。 陰陽寮とは天武天皇(在位673~686)の代に設けられた中央官庁で、試行錯誤を経ての9世紀後半には占いを職務とする陰陽部門、暦づくりを職務とする暦部門、天体観測を職務とする天文部門、時刻の管理を職務とする漏刻部門の4本柱体制ができており、中でも災害や異変の意味するところ、および土地の吉凶を占う陰陽部門は、4部門の中で最も多くの人員が割かれる重要部署だった。 狭い意味での陰陽師は、陰陽寮で専門教育を受けた後、そのまま陰陽寮の陰陽部門に配属された役人(官人陰陽師)を指す。だが、ずっと同じ部署では出世に限りがあるため、陰陽部門で実績を積んだ後、他の部門や他の役所に転属する者も少なからず、部署が違っても陰陽道を操り得る役人もまた陰陽師に数えられた。 また、これら役人以外にも、正規の教育を受けることなく、勝手に陰陽師を名乗る者も多かった。これら民間陰陽師は出家者でないにも関わらず、僧侶の身なりをしていたことから、法師陰陽師と呼ばれた。 官人陰陽師の本来の職務は国家または天皇家のための呪術・祭祀だったが、平安時代の中期以降は貴族層からの個人的な依頼が増え続けた。陰陽師にしてみれば、正規の手当以外にやればやるだけ臨時収入が入るのだから、違法でない限り、断る理由はない。 貴族たちの依頼内容は吉凶の占いを基本に、物忌(謹慎)すべき日、穢れを避けられる方角・時間の選定、病気の原因、怪異(不可思議な現象)が何の前兆かの特定、無病息災や延命の祈願など非常に多岐にわたった。 現代人には理解しにくいかもしれないが、平安時代の都は不安に満ちていた。疫病の蔓延はもとより、日照りや水害、大地震などの自然災害も日常的で、平安宮から一歩外へ出れば、道端には飢えや病気で死んだ人の遺体が転がり、夜間は盗賊が跋扈する。 これら不安の多さが、都の貴族たちを陰陽道に代表される呪術に頼るよう促した。金銭で不安を除去ないし軽減できるなら、利用しない手はなかったのだ。 ■藤原道長を安倍晴明が救ったのは史実なのか? 悪意・敵意を抱く人間による呪詛も現実的な脅威の1つで、鎌倉時代前期に成立した説話集の『宇治拾遺物語』には「御堂関白の御犬、晴明等、奇特の事」と題した話がある。藤原道長が寺院参拝に出かけたところ、愛犬がおかしな行動を取り、急ぎ安倍晴明を呼び出したところ、道長を呪詛する仕掛けの設けられていたことがわかり、晴明が然るべく対処したとする内容である。 同様の話は同じく13世紀に成立した『古事談』『十訓抄』にも見えるが、どれも説話集で、安倍晴明が藤原道長を呪詛から救ったという話は史実の上からは確認できない。 ただし、道長が安倍晴明・吉平父子を賀茂保憲・光栄父子と並んで重用していたこと、および道長が何度も呪詛の対象にされたのは事実で、記録の上で確認できるだけで十数回を数える。 早いところでは西暦の995年、道長30歳の時、高階成忠による呪詛が発覚。成忠は藤原伊周の外祖父だった。 道長の生死に関わったものとしては、道長が左大臣職にあった35歳の時の事件が挙げられる。その年の道長は娘の彰子を一条天皇の皇后にすることに成功した2月25日頃から体調を崩し、三度にわたり辞職願を上書するほど深刻な病状だったが、同年5月には道長の土御門邸から厭物(呪詛に使う呪物の一種)が見つかり、何者かによる厭魅(人形を用いた呪詛)であることが判明した。 さらに1009年、道長44歳の時には中宮彰子と若宮(敦成親王)、道長の三人を標的とした呪詛事件が発覚。呪詛を依頼したのはまたしても藤原伊周の縁者だった。 これら十数件のどれ1つにも安倍晴明が関わったとする史料はない。安倍吉平と賀茂保憲・光栄父子についても同様である。それでは道長に重用された陰陽師はどんな働きをしたのか。この点については陰陽道を専門とする山下克明の『平安時代陰陽道研究』(思文閣)に詳しい。 同書によれば、同時代の史料上で確認できる安倍晴明の陰陽師としての活動例65件のうち、怪異や病気の原因を占う占術が13件、呪術・祭祀が23件、神仏事や行幸などの際の日時・方角の吉凶の答申が17件。同時代に活躍した賀茂光栄も活動記録99件のうち占術が26件、呪術・祭祀が38件、日時・方角の吉凶の答申が31件とほぼ同様の結果であることから、これら3分野が陰陽師の基本的な職務だったと結論されている。 史料には明確に語られないが、実績のある陰陽師ほど、藤原道長に代表される上級貴族からの依頼を優先させたことは想像に難くない。彼らトップクラスの陰陽師は、道長が政務に専念できるよう、あらゆる不安を除去または軽減させる役割を担っていた。これまた史料上からは確認できないが、道長が呪詛を依頼したこともあったかもしれない。
島崎 晋