新幹線開業60年(2)「絶対安全」が生んだ「交通革命」
新幹線は長距離を短時間で移動してしまう。「新幹線以前」の鉄道のように列車運行の監視、指示を各駅に任せると、負担が大きく、安全性や安定運行に支障を来す恐れがあった。列車の運行を1カ所で集中的に監視、指示し、一元的にポイントを変換、進路を設定できれば都合が良い。こうした発想から生まれたのが、CTC(Centralized Traffic Control device: 列車集中制御装置)で、東海道新幹線では開業時から採用され、現在は広く一般の鉄道路線にも普及している。 東海道新幹線の建設に当たって、当時の国鉄は深刻な予算不足に悩まされており、CTCの採用を見送り、列車の運行の監視、指示は各駅が分散して担う案もあった。自然災害が多く、運行停止が頻繁に起こる日本の事情を鑑みて、円滑な列車運行には必要だとして、国鉄の十河信二総裁(当時)が他の予算を削ってでもCTCを採用するよう命じたとの逸話が残っている。
人の流れ、生活に大きな変化
数々の安全対策により、新幹線は大都市の通勤電車と同じような「日常性」を得ることができた。航空機とは異なり新幹線では、出発前に事故など緊急時の対応についての説明はなく、シートベルトを装着する必要もない。新幹線に乗るからといって、わざわざ旅行保険に加入する人も皆無であろう。航空機に比べれば移動に時間を要するものの、手軽に利用できるために新幹線は日本国内の人の動きを大きく変えてきた。 首都圏と関西圏との間での人の行き来は劇的に変化した。鉄道による東京―大阪間の移動所用時間は、東海道新幹線の開業前までは最短で6時間30分だったが、開業によって4時間に短縮された。東海道新幹線開業の翌年、1965(昭和40)年には3時間10分となり、所要時間は半分以下になった。 新幹線の誕生は、潜在的な移動の需要を掘り起こす効果もあった。東海道新幹線の開業前に東京駅と大阪駅とを直接結ぶ日中の特急列車の本数は、1日当たり7往復14本だったが、開業後には30往復60本へと一気に増やされた。戦後の高度成長期の真っただ中にあって、首都圏と関西圏とを往来する需要が劇的に増えていたこともあろうが、新幹線が長距離移動に対する人々の「垣根」を取り外したとも推察できる。 世の中の身近なものにも変化がもたらされた。かつてはローカルな人気にとどまっていた上方の演芸、関西圏のお笑いタレントを「全国区」にしたことは、その一つだ。あるお笑いの大御所は「開業前の人気は、あくまで関西圏が中心だった」と振り返る。 新幹線を利用することによって、関西拠点のタレントでも、全国向けに番組を発信する東京のテレビ・キー局での仕事をしやすくなった。先の大御所によると、新大阪駅と東京駅との間を1日に2往復した日もあったという。都心から離れた空港へ行き、搭乗手続きや保安検査などに時間がかかる航空機では、このような芸当は不可能であろう。大げさだが、「新幹線が日本のお笑い文化を変えた」とも言える。 次にプロ野球である。東海道新幹線の開業は全国を巡る選手らの負担を大幅に軽減した。開業の恩恵を受けなかった最後の年、1964年のシーズン日程を見てみよう。基本的に土曜日と日曜日とに3試合、火曜日~木曜日に3試合が開催され、月曜日と金曜日とが移動日に充てられていた。日曜日は1日2試合のダブルヘッダー、週末の2日間で3試合をこなしていた。 開業後の65年シーズンは、日曜日のダブルヘッダーが大幅に削減され、代わりに金曜日にも試合が開催されるようになった。ダブルヘッダーは徐々に減らされ、70年代半ばにはほとんど見られなくなった。 プロ野球の日程の変更は、航空機の利用が次第に広まったことも要因の一つだろうが、当時の選手の多くがダブルヘッダーを負担に感じていたのは事実で、新幹線の利用が歓迎されたのは間違いない。